前略、



 野良のシャム猫はあまり見たことがないですね。血筋のいい動物はすぐに誰かが保護してくれるのでしょうか。もう飼い主のところに戻った(戻された)かな。そういえばこのあいだ公園で野良インコ見かけたな。

草々

前略、

 仕事を辞めて、海外旅行に出ることにした。どちらも初めての経験だった。
 学生時代はお金がなく、海外旅行など考えもしなかったし、出不精なので国内旅行もあまりするほうではなかった。仕事を始めて数年経ち、多少お金が貯まったので、ここらで一度くらい海外旅行をしておこうと思ったのだった。
 ある年のまだ肌寒い春先、夏には出発しようと計画を立てはじめた。
 最初はヨーロッパを二、三ヵ月回って帰ろうと考えていたのだが、いろいろと調べているうちにだんだん計画は大きくなっていき、最後には、中国から北京発のシベリア横断鉄道でヨーロッパへ行き、北米に飛んでアメリカを横断して、日本に戻る西回りの世界一周旅行をしてみようということになった。
 シベリア横断鉄道といえば、ロシアを走るウラジオストク〜ハバロフスク〜イルクーツク〜モスクワのルートが最も純正なものだが、他にも北京発でモンゴルのウランバートル経由のモスクワ行きと、北京からモンゴルを東によけてハルビン経由でいくモスクワ行きのルートがあり、途中から合流という形だが、これらも広義のシベリア横断鉄道とここでは呼ばせてもらう。どの列車も一度も乗り換えをすることなく運行する世界最長の路線で、そのなかでも北京発ハルビン経由は当時最も距離が長かった。
 当時は日本でソ連(そう、当時はソビエト連邦がまだ存在していた)のヴィザを取るのは結構大変だった。まずソ連の国営旅行社であるインツーリストと提携している日本の旅行代理店を見つけなければならなかった。インツーリストと提携している旅行代理店と連絡を取り合いながら旅程を固めていくうちに、最初に予定していた北京発モンゴル経由の列車が団体に押さえられてしまうということがあったりしたため、ハルビン経由の列車に決め、前金五万円を払って手配を頼んだ。同時に香港行きの片道航空券の手配にもかかった。

 一回目のヴィザの手続きのために大阪のソ連総領事館へ。
 もちろん旅行代理店にお金を払えばヴィザの手続きなどはすべてやってくれるのだが、ぼくは計画や手配も旅の楽しみのうちだと思っているので、個人でできるのであれば、できるだけ自分で行って手続きするということにしていた。
 大阪のソ連総領事館は大阪市内ではなくちょっと辺鄙なところにあった。駅のインフォメーションが領事館のある豊中市の西緑ケ丘と池田市の緑ケ丘を混同したため乗り越してしまい、歩いて戻ろうとしてさらに道に迷い、交番で訊ねたり、人に訊いたりして、なんとかたどりつくことができた。
 領事館の手前には「こちら豊中市ソビエト連邦総領事館前派出所」とぼくが勝手に呼ぶようになった交番があり、ぼくが交番に気付いたときには、警官が出てきてこちらをじっと観察していた。近づくと警官は「総領事館ですか?」「ヴィザですか?」と訊ねてきた。総領事館の入り口はまだその少し先の方なのにどうしてぼくの行き先がそこだと分かるのだろう。警官は慇懃にぼくを総領事館の入り口まで誘導しドアまで開けてくれた。
 総領事館に入ると高い天井に赤い絨毯。廊下の突き当たりにはレーニンの胸像があった。受付にヴィザを取りにきたと告げると、日本語が話せるロシア人の担当の人が現れ、個室に案内されてソ連旅行の旅程などに関するアンケート用紙に書き込んだ。
 アンケートを書きながら思った。なんでソビエト連邦総領事館前派出所の警官は、ぼくが総領事館に用があると分かったのだろうか。道に迷ったときに別の交番で総領事館への道を訊ねたのだが、そこから総領事館前派出所に人相、風体などの連絡でもあったのではないかと思って、気味が悪くなった。
 アンケートを書いていて、記入に必要な旅行代理店にもらった資料を忘れたことに気付いた。ロビーにあるピンク電話から旅行代理店に電話をかけることにした。
 受話器を上げてお金を入れても何の音もしなかった。もう一度試すと今度は通じた。
 旅行代理店の女性に必要なことを訊ねていると、ノイズの交じる音でその女性は言った。
「電話が遠いんですけど…」
 ロビーにある冷水器は壊れていて水が出なかったし、トイレの水道は出が悪かったのだから電話の接続がおかしくても不思議ではないが、もし盗聴しているんだったら、もっとうまくやれと心の中で毒づいた。
 個室に戻ってアンケートのつづきを書く。アンケートを書いているテーブルの隅には「SDIは核を無力化できるか」という日本語の本が置いてあった。
 高い壁の天井に接して小さな窓が並んで付いていた。こちらから外は全く見えない。外からも覗けない。
 アンケートを全部書き込み、ヴィザ代千円を払い込んで最初の訪問は終了した。

 数日後、旅行代理店から見積額が届いた。十三万円強。高いなぁ。
 さらにひと月ほどたって、すべての予約が入ったとの連絡があった。前後して、香港行きの片道航空券も手配が完了した。
 その後、旅行代理店からバウチャーとテレックスの用意ができたと連絡があった。
 バウチャーとはソ連国営旅行社が発行する旅行の予約引換券のようなもので、旅行者が旅に持参して、ホテルに泊まるときに渡したり、列車の切符と引き換えてもらったりする。テレックスも予約の確認とヴィザの発行に関することで必要らしい。
 日本でソ連のヴィザをとるには、ソ連内での旅程をすべて決めて、移動と宿泊の予約を日本の提携旅行代理店とソ連国営旅行社を通じて入れ、料金をすべて払い込むと発行されるバウチャーとテレックスが必要なのだ。
 旅行代理店に行き、料金の残額を払って、バウチャーとテレックスを受け取り、再び、ソ連総領事館へ向かった。
「こちら豊中市ソビエト連邦総領事館前派出所」前で再び職務質問を受けた。名前を訊ねられ、「どちらの?」と住所まで訊かれた。その昔はソ連を旅行しただけで共産主義者扱いされたということだが、ぼくの名前と住所はいまでもどこかのブラック(またはレッド)リストに残っているのだろうか。
 バウチャーとテレックスとパスポートを渡して、二度目の訪問も終了。

 一週間後、三度目の訪問。もちろん三度目の職務質問。
 ついにソ連のヴィザを手にした。当時のソ連のヴィザはパスポートに押すタイプではなく、別紙だった。
 会社を辞め、ドルのトラヴェラーズ・チェックなどを買い(ちなみに当時の売値は百四十八円)、七月十五日、航空運賃の高くなる夏休みのシーズンが始まる前に日本を発った(これが生まれて初めて乗った飛行機だった)。

つづく


[脚注]

  • 一度くらい海外旅行をしておこうと思った
    当時はこれで旅の面白さにはまってしまうなど全く予想していなかった。
  • ウラジオストク〜ハバロフスク
    たしか当時、外国人はウラジオストクに入れなかったのでハバロフスクから乗っていたように記憶している。
  • ソビエト連邦がまだ存在していた
    ソヴィエト社会主義共和国連邦が崩壊したのは一九九一年十二月。
  • 香港行きの片道航空券の手配
    香港経由で中国に入ることにしたのも、日本で中国のヴィザを取るのが面倒なため。このときは上海行きの船の鑑真号で行くことはあまり考えていなかった。よく憶えていないが、船で取ってもヴィザ代が高いのと、なるべくたくさんの国に行きたいと思っていたためだろう。
  • ソ連総領事館
    現在もロシア連邦総領事館と名前を変えて同じ場所にあるようだ。交番は今でもあるのだろうか。レーニンの胸像はどう処分したんだろう。
    在日ロシア連邦領事部ホームページ
  • ピンク電話
    ひょっとしてピンク電話も説明しないと分からない人がいるだろうか。竹内都子と清水よし子の二人によるお笑いコンビ…ではなく、いやらしい声が聞こえてくる電話…でもない。着信ができるコイン式の小型の公衆電話、であってるかな。
  • SDI
    アメリカのレーガン政権が一九八〇年代に始めた、飛来する敵(ソ連)の核ミサイルを迎撃するために計画した戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative)、いわゆるスターウォーズ計画のこと。
  • ソ連のヴィザ
    日本でヴィサを取らなくても直接近隣国へ行ってシベリア横断列車の切符を買ってしまえば、ホテルの予約などはしなくてもソ連の七日間有効のトランジット・ヴィザ(通過査証)が出るということは、日本で準備しているときには全く知らなかった。これだと滞在期間が短いのでモスクワ以外で列車を降りることはできないが、ほんの数万円しかかからないということだった。

2006年4月のブログ投稿


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