前略、
ヴァンクーヴァ スタンレーパーク水族館
バンフ バンフ駅/サルファー・マウンテン/アッパー・ホット・スプリング
エドモントン ウェスト・エドモントン・モール(当時世界最大といわれていた)
オタワ 運河
モントリオール 大雪の日の朝
マドレーヌ島
草々
前略、
スカイプ始めましたが、うちのコンピューター(Power Mac G4 Cube)には、音声入力端子がなかったので、そのための製品を物色しました。
考えられる選択肢は大きく分けてふたつ。
ひとつは、USB接続のマイクやヘッドセットを買う。
もうひとつは、USB接続の音声入力端子の付いたアダプターとそれにつなげるミニジャック接続のマイクやヘッドセットを買う。
ほかにもブルートゥースなどが考えられますが、5歳になろうとしているCubeには今さら多額の投資はしていられないので無視しました。
一つ目の選択肢の利点は、ブツがひとつで済むのでシンプルでいいということ。
二つ目の利点は、つないだヘッドセットなどの装置が気に入らなくても比較的安価に取り換えられるということや、アナログ音源(ラジオやレコード、カセットテープ)をデジタル録音したりなんかもできるようになることなどがあります。
なんかこういうふうに書いていたら、二つ目の選択肢のほうがいいような気がしてきましたが、結局買ったのはUSB接続の受話器型のもの(サンワサプライ USBハンドホン MM-HSUSB2)。ヘッドセットの手ぶら通話も捨てがたかったのですが、コンピューターに受話器がつながっている図がちょっと変わってていいかなと思ってこちらにしました。
買ったのはちょっと探した中では一番安かった通販サイトのケイスター。送料別でクレジットカードが使えないので振込料も必要だが、それでもまだAmazonなんかよりはだいぶ安かった(3750円+送料300円)し、即納でした。
下に今回、購入を検討した物件をあげておきます。
草々
[音声通話準備編につづく]
[初代 iPod touch でSkypeする。]
前略、
入国審査の順番が廻ってきた。いくつかの質問の後、係官が職業を尋ねてきたので、ぼくが仕事はやめたと答えると、彼は理由を尋ねてきた。
「フォー・マイ・ロング・トラベル」
英語は得意でないぼくは、自分のこの長期の旅をするためにやめたという意味でそう答えた。すると係官は自分の胸を押さえながら再び尋ねた。
「どんなトラブルだ?」
「ノー、ノー、トラヴェル!」
ぼくはあわてて下唇を噛む「V」の発音に気を付けながら訂正した。
しかし、後で考えると問題はVの発音だけではなかったようだ。
彼が「どんなトラブルだ」と尋ねた時に片手で胸を押さえていたのは、ぼくの答えの「ロング」を「ラング」(Lung=肺)と聞き取ったためだとわかった。彼はぼくの答えを「肺病のためだ」と受け取ったのである。
このことは、ぼくを少し落ち込ませたが、入国審査官に対してでたらめな受け答えをするというのは、実は悪いことではない。入国審査官が最も気を使っているのは、外国人が不法に長期滞在して働くことなので(これは当時のお話。現在はもちろんテロ関係であることはいうまでもない)、英語がうまく話せるとアメリカで働くことができる奴と見なされるのである。入国審査の時は分かっていても質問を訊きかえし、ヘたな英語で答えたほうがいいのだ。
しかし、その前にぼくは仕事をやめたと答えている。これはもちろんよくない答えである。この国で新しい仕事を探し、一発当ててやろうとしているのかもしれないと思わせるのに十分だからだ。そうはいっても、日本の会社員に長期の休暇が取れないことはかなり知れわたってしまっているので、長期旅行をする場合には答えに気をつけなくてはならない。
他には「この国に友人はいるか」という質問にも気を付けなくてはならない。友人宅に長逗留されるのを恐れているのだろう。もちろん、いないと答えたほうがよい。とにかく、自分は善意のの観光旅行者だということをよく分かってもらわなければならないのだ。
草々
前略、
カイロから、夜行列車でアスワンへ。
一気に最南の都市まで下ったので、暑さもかなりなもので、体温計で気温が計れた。ある日の夕方4時のホテルの室内の気温は39.5度、計ったのは電子体温計だったが、水銀式の物だと鞄に入れて外を歩いている間に温度が上がり過ぎて破裂することもあるそうだ。
安宿にはエアコンがないので、夜はベッドのマットレスが電気毛布のように熱く、何度も水をまいて気化熱で冷やさないと眠れなかった。世界には体温計では気温が計れないほど暑くなるところも多いので、この程度は大したことないという人もいるだろうが、ぼくは40度のアスワンとマイナス10度のモントリオルなら、まだモントリオルのほうがましという人間なのでこの暑さはたまらない。
夜中の3時半に起きてアブ・シンベル神殿の半日ツアーに出る。エアコンもないボロいワゴン車が来て、いくつかの安宿で客をピックアップした後、出発した。
砂漠の中をひたすら4時間ほどひた走ると、アスワン・ハイ・ダムでナイル川を堰止めてできた人口湖のナセル湖のほとり、スーダンの国境に近いところにある神殿に着く。
この神殿は3000年以上前の新王国時代にラムセス二世が作らせたものなのだが、3000年後、ダムができる時にナセル湖に沈む場所にあったので、大きなブロックに切り刻んで今の場所に移転させたそうだ。
2時間ほどの見学の後、帰途に着く。再び、砂漠の中をひた走る。行きは夜明け前からの涼しい時間だったので眠って来られたが、帰りはまだ午前中とはいえ、すでに十分に激しい太陽の下で砂漠を突き進んでいくことになる。
ぼくはこの道のりを甘く見ていて、アスワンを出る時、ミネラル・ウォーターを1リットルほどしか持ってきてなくて、その水は帰り道の早いうちになくなってしまった。神殿の売店にも水は売っていたのだが、足元を見てかなり高い値段になっていたし、まだ残っていたので大丈夫だと思って買わなかったのだ。
水が切れてしばらくすると、ぼくの体は脱水症状を呈してきた。口を開けると水分がそこからどんどん逃げていくのが分かるような気がする。目からも湯気が出てるんじゃないかと思うほどだ。この辺りでは汗をかくこともない。実際はかいているのだが、すぐに蒸発して乾いてしまうので肌はいつもさらさらなのである。
手が震えだした。地平線には蜃気楼があって、道の先にある丘をいくつ越えても次の丘が見えるだけで、町は見えてこない。
アブ・シンベル神殿へはお金を出せば飛行機で行ける。他には全く何もない場所に神殿の観光だけのために空港があるのだ。それが無理でも、少しお金を出せばエアコンの付いた観光バスでも行けるのに、それをケチったためにサスペンションが壊れてがたがたと揺れ、開けた窓からは体温より熱い完全に乾ききった熱風が吹き込むワゴン車でぼくは干からびて生きながらミイラになろうとしていた。
薄れゆく意識の中でぼくはユニセフを恨んだ。移転する時にアスワンまで持ってきて組み立ててくれればこんな苦労はせずに済んだのだ。いや、それをいうならラムセス二世が先だ。3000年前に彼がこんな辺鄙なところ(当時は今ほど辺鄙ではなかったのかもしれないが)に建てず、素直にルクソールに立てておけば…。
「ラムセス二世のアホ〜!」
草々

6月3日(土)曇りのち晴れ
起きたら霧雨が降っていてぎょっとしたが、すぐに止んできたので出発。
九十九里浜を出て犬吠埼へ。九十九里浜はずっと真っ平らだったが、岬に近づくと山になっていて上り下りが多くなる。
銚子で銭湯に入り、利根川にかかるせまくて長くて歩道のない人殺し橋、銚子大橋を渡り、茨城県へ。
利根川を少しさかのぼるといい感じの川沿いの広場があったので、トイレも水道もなかったが、そこにテントを張った。
(58.19km/4h12m・計372.3km)

前略、
『 スマート・プレイリストで「曲をシャッフル」』の項などでiPodのライヴ・アップデイトの振る舞いについて書きました(ヴァージョン2.2のiPodでのことなので、ほかのヴァージョンの場合は違っているかもしれません)。
iPodのライヴ・アップデイトは、iTunesのように曲の終わった瞬間ではなく、プレイリストから出た時にかかる。
曲の「分類(grouping)」を使ったスマート・プレイリストはiPodではライヴ・アップデイトで更新されない。
これに追加情報です。
スマート・プレイリストを作る条件に、ほかのスマート・プレイリストを使っていた場合、リストはiPod内では更新されないようです。
スマート・プレイリストはすべての条件に合致するものか、いずれかの条件に合致するもののどちらかしか選べないので、この両方の条件を使いたい時はス マート・プレイリストで別のスマート・プレイリストを条件に選べばよいのですが、この場合はライヴ・アップデイトがきかないということになります。
草々
「乳母車」っていいかたは古くさい?
ああ、確かに…。かっこいいとは言い難いね…。
じゃあ、なんて呼ぶの?
え? なに? ベビー…なに?
カー? ベビーカー? ベビーカー??
また始まったか…。なんだよ、その見るからにうさんくさい言葉。
なんの疑いもなくよくそんないんちき日本語っぽい単語を口から吐けるね…。
Baby Carだよ。Baby Car! これはちゃんとした英語じゃないんじゃないかなあとか、少しは疑問に思わんか?
うばぐるま 乳母車
《米》 a baby carriage [buggy]; 《英》 a pram; 《fml》 a perambulator
乳母車を押して行く wheel a baby carriage.
べつに「ベイビーバギー」とか「ベイビーキャリッジ」とか「プラム」って呼べっていってるんじゃないよ。「乳母車」っていうちゃんとした単語があるんだから。
さらにいえば「乳母車」って呼べともいってないよ。「ベビーカー」でいいよ。定着した日本語なんだから。
でも「乳母車」って聞いて、さっき笑ったろ。
で、なんだって。「乳母車」じゃなくて「ベビーカー」だって?
それはない。
前略、
イラン入国。イラン西部の最初の大きな町であるタブリズに着いた。
タブリズはきれいな町だった。
ぼくはイランのことをこれまでの中東のアラブ諸国と同じくらいか、それよりおくれた途上国と勝手に思い込んでいて、トルコを出たら辛い旅になるのではないかと覚悟していたので、タブリズのきれいな町並みを見て驚いた。パリのように掃除夫が道路の脇の溝に水を勢いよく流しごみを掃除しているのをよく目にした。
1925年、混乱のイランを支配した軍人レザ・ミルザは、パフレビー朝を興して国王に収まり、レザ・シャーを名乗ってトルコをモデルにした近代化政策を取るようになった。
第二次大戦中ドイツを支援していたシャーはイギリス軍とソ連軍に攻め込まれ、王を退位させられ息子のモハメッドに王位を譲り、南アフリカに亡命した。
1953年、民族運動、反国王運動などが起こり、息子の二代目国王のレザ・シャーは国王は議会の全権を掌握した首相モサデクとの権力闘争にも破れ、イタリアに脱出せざるを得ない状態にまでなった。しかしイランの巨大な石油利権を手放したくないアメリカとCIAの支援による軍部の逆クーデタ(カウンタークー)が成功してシャーは国王に復帰する。
1962年、アメリカと強い繋がりを持ったシャーは父がやった政策をさらに押し進め「白色革命」という土地改革や婦人参政権などを含む近代化政策を開始した。国王の封建政治と民族運動の弾圧などにもかかわらず、アメリカなどの援助と豊富な石油収入でイランの経済は急成長した。イランはその頃、トルコに次ぎ近代化を押し進めていた国だったのだ。
タブリズの町をまわった後、公園でベンチに座って休んでいたら、若いイラン人が近づいてきて隣に座って話しかけてきた。彼は学生で数学を勉強してるという。彼はぼくに数学が得意かと尋ねてきて、ぼくがまあまあだと答えると、持っていたノートの連立方程式を示して解けといい出した。
ぼくが断ると、この失礼な男は今度は聞いてもいないのに自分の意見を話しだし、素晴らしい予言を高らかに披露してくれた。
「21世紀にはアメリカは滅び、イスラム世界が笑う時が来るだろう…」
彼は絶対の自信を持ってそういいきった。
彼の予言の前半部分にはなかなかするどいものがあるように思えるが、後半部分については希望的観測に過ぎるのではないかと思う。
勝手にどんどん続く話を聞いていると、アメリカが滅びるのはきりぎりすのように自滅するというのではなく、イランとアメリカが戦争をして彼らがアメリカを滅ぼすということらしい。彼は近い将来、自分がアメリカと戦うことになるだろうということに確信を持っていた(当時のぼくはそんなことはあり得ないと思っていた。イランは戦争を仕掛けるほどバカではないと。しかし最近の情勢を見ていて戦争を仕掛ける可能性があるのはイランの方ではないのだと分かった)。
彼はさらにぼくに神を信じるかと尋ねてきた。
まともに話をする気がすっかりなくなってしまったぼくが投げやりに、しかし正直に「Not at all(少しも)」と答えると、やがて彼はどこかに行ってしまった。
イスラムを賛美して、アメリカをこき下ろすスローガンはこの国ではあらゆるところで目にした。この学生の言葉を聞いたらホメイニ師も来世でさぞお喜びであろう。
白色革命の頃、宗教をないがしろにする国王の近代化政策に反対するホメイニ師は宗教指導者として頭角を現わしていた。彼はシャーとイランを乗っ取ろうとする帝国主義者の国であるアメリカを批判し、民衆を煽動した。
いきすぎた煽動がたたって、1963年に彼は当局に逮捕されトルコへ国外追放になりそこからイラクに亡命したが、彼はそこからも様々なメッセージを信奉者を通じてイランに送り続けていた。
1977年、イラクにいるホメイニ師からイランへの内政干渉が両国の協定に違反しているとして、イラクからも追放された彼はフランスへ移動した。
その頃イランの比較的順調だった経済政策は破綻し、過剰な治安体制、王家の国有財産の浪費、宗教の抑圧、社会経済の混乱などにシャーへの不満は爆発して、ストライキやデモが増え、ホメイニ師はフランスからも彼らを煽動し、やがて王制への反対運動は最高潮に達した。
シャーは政治の民主化を約束し実際に試みたりしたが、国民はすでに王の追放以外では収まらなくなっており、万策尽きたシャーはついに1979年エジプトに亡命する。
イランの利権を手放したくないアメリカはシャー抜きでも親米の新政権の樹立を目指し、再びCIAなどを通じてあらゆる工作を続けたが、宗教的に大きな力を持ちすでに神格化されていたホメイニ師が危険を冒してイランに帰ってきた段階から、アメリカの挽回のチャンスは小さくなっていった。
草々
川原の道は車両通行止めになっていて静かな場所だったが、時々目が覚めた。中洲を走っているのか、アホの子のバイクの音、鳥の鳴き声、よく分からない音。目が覚めてそろそろ明け方かなと思って時計を見たらまだ午前一時だった。もう一度寝て、今度は四時ごろに目が覚め、すでに明るくなってきていたので起きる。
五時過ぎに朝食。持ってきたテントは前室が大きく取られているのでそこで調理ができて便利(重すぎるけど)。六時過ぎには撤収を開始して、出発。
基本は相模川沿いに下っていくのだが、相模川は川沿いを自転車で進むようなことは全く考えられていなかった。地形的に川沿いに道がとれないのはしかたがないが、たまに川沿いに道があっても舗装はないし、行き当たりばったりで途切れているし、「ラオスの山道かっ!」というようなでこぼこの泥道も多かった。たまに整備されていてもほんの短い区間だった。多摩川の神奈川県側を見てもわかるが、県の財政が厳しくてそこまで手をかけられないのだろう。
苦労してなんとか海まで到達。茅ケ崎の海岸には川とは打って変わって気持ちのよい自転車道があり、波のない海のサーファーなどをながめながら進む。
最初はこの辺りの海岸で二泊目をしようと考えていたのだが、まだ午前中だったので、いえに帰ることにする。
海岸沿いの自転車道は地下道で引地川の自転車道に続いている。そのあとさらに東にある境川まで車道を走ればこちらにも国道一号線を過ぎた辺りから右岸に自転車道が付いていて北上できる。
すぐに異様な高層ビルが現れて目を引く。某共和国の首領様が好みそうなデザイン。この手のデザインの建物は十中八九新興宗教の施設と見て間違いなかろうと思っていたのですが、違いました。地方出身なので全く知りませんでしたが、そこは横浜ドリームランドの跡地らしく、くだんの怪しい塔はホテルエンパイアという宿泊施設だったそうです(現在、大学に改装中!)。
軽い雨が降ってくる。ただ前に進むことだけを考えて黙々と進む。町田を過ぎ、桜美林学園の近くまできたところで自転車道を離れ、尾根緑道(戦車道路)に向う。こちらも自転車歩行者専用道になっている。尾根というくらいなので高台になっていて上り下りがあってぐったりと疲れた体にはつらかったが、がんばって進み、京王多摩境駅があるところで尾根を下り、京王相模原線沿いに走ると多摩センター辺りで乞田川に合流する。乞田川を下るとついに多摩川に合流し、ゴール。素人に一日百キロ超はつらかった。出発時から体重1.0キロ減。[本日の走行距離:117.02km]
草々
前略、
ビリー・レッツが好きです。
ビリー・レッツはアメリカの小説家でいままでに2冊の長編小説を出していて、両方とも翻訳が出ています。
「ビート・オブ・ハート」Where the Heart Is ★★★★★
妊娠したティーンの女の子が恋人と新天地を求めて西海岸へのドライブ中、ささいなことから田舎町のマーケットに置き去りにされてしまう。全くお金のないその娘は毎晩マーケットに忍び込んで夜を明かしていたが、ある夜産気づいてそこで出産してしまう。
幸せではなかった女の子はその田舎町で人々の優しさに触れ、新たな人生を歩みはじめる。
この小説はナタリー・ポートマン主演で映画化され「あなたのために」という邦題で公開されましたが、ぼくはまだ見ていません。イメージをこわされるような気がするので。
「ハートブレイク・カフェ」The Honk and Holler Opening Soon ★★★★★
田舎町の小さなドライヴイン・カフェを営む30台の男。家族同然の中年女性のウェイトレスはいるが、コックは何度雇っても長くいついたためしがない。
ある日、けがをした犬を抱いたネイティヴ・アメリカンの若い女がヒッチハイクで店にやって来る。女はバイトでカー・ホップ(ドライヴインの車相手のウェイトレス)をやらせてくれとたのんでくる。中年女性は「この女はトラブルを招く」と感じる。
こちらも映画化されるようで、レッツ自身が脚本を担当したとも聞いているので、多少期待が持てますが、主演がまたナタリー・ポートマンという噂も聞いていて原作のインディアンという設定を替えてしまっているのかが気になるところです。
最初に読んだのが「ハートブレイク・カフェ」のほうで、読み出したらやめられなかった上に、読み終わった直後からまた最初から読みはじめたほどです。
レッツの作品はダサいいいかたでいうと「癒し系」、傷ついて不幸な人たちがまわりの人々(彼らも決して幸福というわけではない)のやさしさに触れ、前向きに進んでいこうとするというような話です。ウィーピー(お涙頂戴もの)だともいわれますが、ぼくはあまり行き過ぎていなければウィーピーなのも嫌いではありません。
新作の「Shoot the Moon」がアメリカで発売されています。ほしいのですが、ハードカヴァーなのでちょっと高くて躊躇しています。
草々


ジーメールでケータイメールの絵文字が表示できるようになっていた。ウェブではジーメールをほとんど見ないので気付かなかった。ケータイを使わないので、はじめてどんな絵なのかが分かった。
とりあえずauからのようだ。
パソコンで使ってるメールソフトのサンダーバードでも絵文字がでればいいのだが。
こんなに絵文字を使ってたのに、今まで全然分かっていませんでした。どうもすいません。
いままでパソコンでこんなふうに見てました。
卲 Happy Birthday !!誾
(中略)しょう!誧
(中略)�(中略)ありますように….!﨏
ケーキは、� <— これで我慢して下さい。抦
前略、
イスファハンからさらに東へ進む。
イランでの移動は主にバスだった。イランには鉄道もあるが、駅がだいたい町のはずれにあるので不便なのだ。バスのもうひとつの利点は料金が異常に安いということである。
バンダレ・アンザリまでの9時間ほどの道のりが3000リアル余り(約200円)、テヘランからイスファハンの400キロ強(東京・岐阜間ぐらい)が2000リアル(約130円)だった。そしてこの時のイスファハンからザヘダンまでの1200キロ強(東京・佐賀間ぐらい)の長丁場の切符がたったの3500リアル(約230円)で、昔はもっと安かったというのである。同じイスファハンからザヘダンまでが飛行機でも5ドルほどだったと聞いた。
この異常な安さの秘密はやはりアラーの贈物、石油のお陰だろう。こっちの長距離バスの運転手は1時間ほどの食事休憩の間も誰もいないバスのエンジンを掛けっぱなしにしておくほどなのである。他には料金が政府の認可制になっていてインフレに付いていってないというのもあるらしい。
イスファハンを昼過ぎに出発した。バス・ターミナルを出た途端一度エンストしたので嫌な予感はしていた。その後もしばらく走っては止まってエンジンを調べるということを繰り返し、そのあげくになぜか途中でタイヤを交換した。
その後は眠っていたのでどうなっていたか知らないが、目覚めるとバスは止まっていて車内は空っぽだった。ひょっとしてもう着いたのかと思ったが、しばらくするとバスがゆっくりと音もなく動き出した。窓の外を見てみると客が後ろから押してバスを押しがけしていた。
しばらくすると運転手はついにエンジンを掛けるのをあきらめてしまい、乗客は道のりの半分ほど来たところで立往生してしまった。
しばらくみなで途方に暮れていると偶然他社のバスが、それも空車のバスが運よく通りかかり、そのバスの運転手に頼んで乗せてもらえることになった。そのバスに乗り走っていると料金を請求にきた。さっぱり状況は分からないのだが、乗せてもらっている運転手が請求しているらしく、後で返すといっているようなのでとりあえず出した。
バスは目的地のザヘダンまでではなく、最寄りのケルマンのバス・ターミナルまでしか行かず、そこでみんな降ろされてしまった。一緒に乗っていた客はバス会社の説明を聞いていたようだが、ぼくにはさっぱり分からない。例によって英語を話せるものは全くいない。一部のお客はどこかで出したお金を返してもらったようだし、いつの間にか代りのバスに乗っていった者もいるようだ。呼び出しを受けてもペルシャ語ではこっちには何も分からない。
同じバスに乗ってきた人を探そうと思ったのだが、イラン人は女性はみなチャドルを被り、男性は全員が口髭を生やした眉毛の濃い同じような暑苦しい顔をしているので、すぐに誰が誰だか分からなくなってしまった。
通じない言葉でなんとかそこまで乗ってきたバスに払ったお金は返してもらったが、そこからザヘダンまではどうすればいいのかはいくら話しても何も分からず(分かってもらっているかも分からず)、そのうちスタッフが入れ替わってしまうと自分がどうしてそのバス・ターミナルにいるのかということ自体が分かってもらえなくなり、結局朝方にはどうしようもなくなって、もう一度そこからザヘダンまでの切符を買ってバスに乗るしかなくなってしまった。
バス代が安くてほんとうに助かった。高かったらアラーに向けて呪詛の言葉をはいて大あばれするところだった。
ザヘダンはアフガニスタンとパキスタンの国境に近い町でかなり埃っぽくなってきた。いよいよこの横断ルート最大の難所が目の前だ。
草々
6月21日(火)雨ときどき曇り
夜降っていた雨は朝起きたときには止んでいたが、テントから出て外を見たら降っていないだけで真っ黒な雲が空を覆っていたので出発しないことにする。
昼過ぎからはやはり再び雨が降ってきた。ごはんを作り、食べ、お茶を飲み、雨読(ロアルド・ダール)する。
(0km/0h00m・計1416.2km)

う〜ん、あいかわらずアイチューンズとアイポッド・タッチの同期は不安定なままだ。
とくに大容量のビデオや写真を一度に同期しようとすると途中でアイチューンズがフリーズしたりデバイス・タイムアウトとかいって同期が止まってしまうことが多い。
このあいだ、アイフォトに入っている3000枚ほどの写真を全部同期しようと思ったら、やっぱり途中で止まってしまった。それだけならいいのだが、写真が全部転送されずに同期が止まってしまったら、それまで転送したデータが「その他」に分類されてしまってゴミとしてアイポッド・タッチのメモリを占領してしまうのだった。同期に失敗する度にその他のデータが増えてしまう始末。こいつは写真の転送をしない設定にして同期すると消える(転送できていた写真とともに)。
ビデオも写真も少しずつ分割してだましだまし転送すると、けっこううまくいくようなので、つぎにアイフォトの写真をいくつかのアルバムにざっくり分割して少しずつ転送しようとした。これだとまあフリーズする前に同期し終えて、うまくいきそうだったのだが、閲覧する時に特定の写真を探しづらい。
ということで、やはり写真はアイフォトのイベント別に同期したかったのだが、イベントの場合はすべてのイベントを転送するか、最近のXX件(20件以下)のイベントを転送するかしか選択しがなく、ちょっとずつ転送するということができない。
二日が三日がかりで、転送してはフリーズして、消去して、転送して、デバイス・タイムアウトになり、消去して、再起動してと、時々繰り返していたら、ある時、全イベントが同期できた。理由はない。たまたまだろう。不安定の不安定たるゆえんだ。
一度、全部の写真を同期できてしまえば、あとは増えた分を同期すればいいだけだから、そんなにフリーズすることもないだろう。
でも、アイポッド・タッチがおかしくなったり、ファームウェアのアップデートがあったら、また全部転送し直さなければいけないのだろうか…。
追伸、アイフォトのイベントをアイポッド・タッチに転送してリスト表示すると、イベント名によって濁点や半濁点が一文字に独立して、表示がおかしくなるバグがある(画像参照)。
3年たってバッテリーサイクルは1000近く、容量は50パーセント前後まで落ちたので、マックブックエアーの内蔵バッテリー交換をした。
アップルのサイトによると、バッテリーサイクル1000で容量は80パーセントほどになるとあるので、50パーセントは落ちすぎ。最近、3週間ほど家を空けたときに充電しっぱなしにしてしまって一気に落ちてしまった。
一時期、バッテリーがふくらんだらしく、トラックパッドが効かなくなったことがあったので、そのへんも原因かもしれない。
アマゾンで交換用のバッテリーを買う。8200円。そのほか専用のねじ回しが二本必要。
作業自体は簡単。基本ネジをはずすだけ。すぐに完了。
バッテリーサイクル0、容量99パーセントに戻った。


裏蓋開けるのに必要なペンタローブドライバー

この中の一個でバッテリーを止めているT5トルクスネジを外す
前略、
iTunesを使って音楽をマックに入れ、iPodで外に持ち出せるようになったら、スティーヴ・ジョブズのいうところのデジタル・ハブとしてマックに次にほしいのは何だろう。
ぼくはもうテレビはまったく見ないのでそっちのほうは興味がない。逆にラジオをよく聴くようになったのでマックにつなげることができるラジオがあればとても便利だ。気に入った番組をまるごとエアチェックしてmp3にすればiPodで外でも聴くことができる。
コンピューター対応のラジオはさがせばないことはないが、どれも帯に短し…、という感じだ。必要以上に多機能で高価だったり(これも)、携帯型シリコンmp3プレーヤーとの一体型だったり、どうもしっくりこない。
Griffin TechnologyのradioSHARKはぼくの探していたものに一番近いUSB接続ラジオだった。マック対応だし、タイマー録音はできるし、AMとFMの両方に対応している。値段もお手ごろだ。
しかしこいつには大問題がある。発売していないのだ。
Shipping soon(近日発売)とかかれたウェブページはもう1年近くそのまんまだ。いったい何が問題なのだろう。なにか解決できない不良があるのだろうか。AM対応というのに無理があるような気もする。AMラジオをコンピューターやモニターに近づけるとものすごいノイズがするし。
もうこの製品は永遠に発売されないのではないかと思いはじめている。
かわりにiPodにつけてFMラジオが録音できるなんてアタッチメントがでればいいんだけどな。
草々












