[イラン]イスラム世界が笑う時

前略、

イラン入国。イラン西部の最初の大きな町であるタブリズに着いた。
タブリズはきれいな町だった。
ぼくはイランのことをこれまでの中東のアラブ諸国と同じくらいか、それよりおくれた途上国と勝手に思い込んでいて、トルコを出たら辛い旅になるのではないかと覚悟していたので、タブリズのきれいな町並みを見て驚いた。パリのように掃除夫が道路の脇の溝に水を勢いよく流しごみを掃除しているのをよく目にした。
 
1925年、混乱のイランを支配した軍人レザ・ミルザは、パフレビー朝を興して国王に収まり、レザ・シャーを名乗ってトルコをモデルにした近代化政策を取るようになった。
第二次大戦中ドイツを支援していたシャーはイギリス軍とソ連軍に攻め込まれ、王を退位させられ息子のモハメッドに王位を譲り、南アフリカに亡命した。
1953年、民族運動、反国王運動などが起こり、息子の二代目国王のレザ・シャーは国王は議会の全権を掌握した首相モサデクとの権力闘争にも破れ、イタリアに脱出せざるを得ない状態にまでなった。しかしイランの巨大な石油利権を手放したくないアメリカとCIAの支援による軍部の逆クーデタ(カウンタークー)が成功してシャーは国王に復帰する。
1962年、アメリカと強い繋がりを持ったシャーは父がやった政策をさらに押し進め「白色革命」という土地改革や婦人参政権などを含む近代化政策を開始した。国王の封建政治と民族運動の弾圧などにもかかわらず、アメリカなどの援助と豊富な石油収入でイランの経済は急成長した。イランはその頃、トルコに次ぎ近代化を押し進めていた国だったのだ。

タブリズの町をまわった後、公園でベンチに座って休んでいたら、若いイラン人が近づいてきて隣に座って話しかけてきた。彼は学生で数学を勉強してるという。彼はぼくに数学が得意かと尋ねてきて、ぼくがまあまあだと答えると、持っていたノートの連立方程式を示して解けといい出した。
ぼくが断ると、この失礼な男は今度は聞いてもいないのに自分の意見を話しだし、素晴らしい予言を高らかに披露してくれた。

「21世紀にはアメリカは滅び、イスラム世界が笑う時が来るだろう…」

彼は絶対の自信を持ってそういいきった。
彼の予言の前半部分にはなかなかするどいものがあるように思えるが、後半部分については希望的観測に過ぎるのではないかと思う。
勝手にどんどん続く話を聞いていると、アメリカが滅びるのはきりぎりすのように自滅するというのではなく、イランとアメリカが戦争をして彼らがアメリカを滅ぼすということらしい。彼は近い将来、自分がアメリカと戦うことになるだろうということに確信を持っていた(当時のぼくはそんなことはあり得ないと思っていた。イランは戦争を仕掛けるほどバカではないと。しかし最近の情勢を見ていて戦争を仕掛ける可能性があるのはイランの方ではないのだと分かった)。

彼はさらにぼくに神を信じるかと尋ねてきた。
まともに話をする気がすっかりなくなってしまったぼくが投げやりに、しかし正直に「Not at all(少しも)」と答えると、やがて彼はどこかに行ってしまった。
イスラムを賛美して、アメリカをこき下ろすスローガンはこの国ではあらゆるところで目にした。この学生の言葉を聞いたらホメイニ師も来世でさぞお喜びであろう。

白色革命の頃、宗教をないがしろにする国王の近代化政策に反対するホメイニ師は宗教指導者として頭角を現わしていた。彼はシャーとイランを乗っ取ろうとする帝国主義者の国であるアメリカを批判し、民衆を煽動した。
いきすぎた煽動がたたって、1963年に彼は当局に逮捕されトルコへ国外追放になりそこからイラクに亡命したが、彼はそこからも様々なメッセージを信奉者を通じてイランに送り続けていた。
1977年、イラクにいるホメイニ師からイランへの内政干渉が両国の協定に違反しているとして、イラクからも追放された彼はフランスへ移動した。
その頃イランの比較的順調だった経済政策は破綻し、過剰な治安体制、王家の国有財産の浪費、宗教の抑圧、社会経済の混乱などにシャーへの不満は爆発して、ストライキやデモが増え、ホメイニ師はフランスからも彼らを煽動し、やがて王制への反対運動は最高潮に達した。
シャーは政治の民主化を約束し実際に試みたりしたが、国民はすでに王の追放以外では収まらなくなっており、万策尽きたシャーはついに1979年エジプトに亡命する。
イランの利権を手放したくないアメリカはシャー抜きでも親米の新政権の樹立を目指し、再びCIAなどを通じてあらゆる工作を続けたが、宗教的に大きな力を持ちすでに神格化されていたホメイニ師が危険を冒してイランに帰ってきた段階から、アメリカの挽回のチャンスは小さくなっていった。

草々