前略、
前回の「言葉の家族」では世界で話されている言葉のかなりの数がインド・ヨーロッパ語族というカテゴリーに入り、ひとつの祖語から分かれていったものらしいということを書きましたが、文字の世界にもたくさんの文字の共通の祖先となる文字があります。こちらは言葉とは違い遺跡として残っているので実際にどのようなものだったか、どこで使われていたかがかなりはっきりと分かっています。
紀元前1500年頃、地中海の東にフェニキアというところがありました。そこに住むフェニキア人はすぐれた航海術を持ち、商才にも長けていたので地中海沿岸の国々と取引をし、自分たちのすぐれた文化を伝えていきました。彼らの使っていた文字がフェニキア文字で、右から左へと書く22の子音を表す文字から成っていました。
この文字の源流はエジプトのヒエログリフが簡略化されてできた民衆文字(デモティック)にあるといわています。
フェニキア人が使っていた言葉はアラビア語やヘブライ語などのセム(アフロ・アジア)語族の言葉ではなかったかといわれています。これらの言語は母音が少ないので子音だけの文字でもあまり不都合がなかったということです。
紀元前9世紀頃、このフェニキア文字がギリシャに入ります。しかし、ギリシャ語はインド・ヨーロッパ語族の言葉であり、母音も多いので、そのままではギリシャ語を書き表すには不便でした。
そこでギリシャ人はこの文字にアクロバティックな独自の変更を加えます。それは文字の中でギリシャ語にはない子音の文字を母音の文字にしてしまうというものです。
この結果、A、E、O、Yが母音字となり、その後いくつかの文字を付け加え、紀元前4世紀頃、子音17と母音7の文字を持つギリシャ文字として完成します。
さらに右から左へ書いていたのも犂耕式(書く方向を一行ごとに変えていく方式)を経て、左から右へ書く方式に定着します。
これらの変更と当時のギリシャ文化の影響力から、この系統の文字は大きく広がることになります。
まず、ギリシャ文字はローマに入り(ギリシャ人とローマ人の間にエトルリア人を経由しているという説もあります)、紀元前3世紀に19文字からなるラテン語を表すラテン文字となります。
さらに紀元後5世紀頃にギリシャ文字はカスピ海と黒海の間にあるグルジアとアルメニアに入り、それぞれの言葉を書き表すグルジア文字、アルメニア文字となります。
9世紀にはギリシャ語はさらに影響力を持つ文字のお手本となります。
その頃、今のルーマニアとスロバキアの国境あたりにあった大モラヴィア公国が、今のトルコとギリシャあたりにあったビザンチン帝国にキリスト教布教のための人員派遣を要請し、皇帝はコンスタンティノスとメトディオスの兄弟を派遣しました。この時にコンスタンティノスは、当時、東ヨーロッパで話されておりまだ文字を持っていなかったと考えられているスラブ語にキリスト教の福音書を翻訳するため、グラゴール文字と呼ばれる文字を作りました。
この時彼が作った文字は独自なものだったので書くのも読むのも難しかったためか半世紀ほど後に、この文字を基にしてギリシャ文字を取り入れて作り直した文字が現れます。この文字がキリル文字と呼ばれているものです。
グラゴール文字を作ったコンスタンティノスは修道士となった後にキュリロスと名乗るようになり、これはスラブ名でキリルというのでキリル文字と呼ばれるようになりましたが、彼が作ったのはグラゴール文字で、キリル文字を作ったのは彼ではないといわれています。
ここで大きな意味を持つのが、グラゴール文字とキリル文字がキリスト教布教のために作られたということで、この文字はギリシャで信じられていたキリスト教であるギリシャ正教(東方正教)と共にスラブ語圏とその周辺地域に広まりました。そのため、現在キリル文字を使用している国は(ソ連に押しつけられた国を除いて)ほとんどが東方正教の国といってかまいません(ルーマニアは東方正教の国ですが19世紀にラテン文字に切り替えました)。
同じようにローマ・カトリックと共にラテン文字は西ヨーロッパを中心に広まりました。
話を再び紀元前に戻します。紀元前8世紀頃、アラム(現在のシリアあたり)にフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字が現れます。
この文字は紀元前2世紀頃にヘブライ文字になり、紀元後5〜6世紀にはナバタイ文字をなかだちとしてアラビア文字になります。
ヘブライ語は紀元後2世紀のユダヤ人の離散と共に死語となり、宗教語としてのみ残っていたものを1500年以上の後にイスラエルの公用語として復活させました。その間、生きた言葉として全く使用されず変容する機会がなかったため、ヘブライ文字は22文字の子音字のみでできていて、右から左に書くなど紀元前のフェニキア、アラム文字の特徴をそのまま持っています。
草々