二日目、コンパートメントで周さんやUさん、Kくんと話をした。昼、夜は皆で食堂車に行った。食堂車は走っている国のものが付くので料理は中華料理である。周さんにみつくろってたのんでもらった。
三日目、朝の五時に起こされた。国境が近いらしい。
国境の中国側の駅である満州里に着く。検疫が軽くあり、パスポートを持っていかれ、税関は入国時に書いた書類を持っていった。車両の入れ替えなどがあった後、駅に降りて再両替などをした。
列車に戻り、ソ連へ入国した。香港から上海へは船だったので、これが生まれて初めて地面にある国境を越える経験だった。広い草原に延々と柵が続いていたように記憶している。
島国に生まれたからだろうか。世界中のほとんどの人があたりまえに感じているであろう地面に引かれた国境にぼくは引きつけられた。一つの国を離れ、もう一つの未知の国に入るという行為は、ぼくを不安と興奮が入り混じった気分にさせた。その後、とりわけ歩いて国境を渡るチャンスがあるときは、なるべく逃さないようにするようになった。
ソ連最初の駅で制服が乗り込んできた。まずぼくらをコンパートメントから出して、中を調べ、パスポートとヴィザのチェックをした。税関は何も調べずにハンコを押しただけ。そのあいだにぼくらを乗せたまま、車両を持ち上げて車輪の台座を広軌のものに取り換えていた。
その後、駅に下ろされて再び待った。真夏だったが、ここまで北上するとかなり涼しい。しばらくすると中国のものに変わり、ソ連のディーゼル機関車にひかれた列車がやってきて出発した。
食堂車がソ連のものに変わって、ロシア料理が食べられるようになっていた。その他、途中の駅ではじゃがいものふかしたものや、ギョウザの皮にいもを包んだものなどを売っていた。じゃがいもをただふかしたものはとてもおいしくてこの列車で食べたものの中でも一番印象に残っている。
晩飯の時、ロシア人が近づいてきて言った。
「チェンジ・マネー?」
闇両替屋である。一米ドルを十四ルーブルでどうだという。当時の旅行者レートは一ルーブル二十七円ほどで、三倍ほどよかったので五ドル分両替した。
四日目、北側の車窓にバイカル湖が見えていた。昼過ぎ、イルクーツク到着。
U先生はホテルまで例の送迎車が付いているというので、ぼくたちは歩いてインツーリストホテルへ。着くと、このホテルにはハバロフスク方面からきたらしい日本人旅行者がいっぱいだった。
バウチャーを渡してチェックイン。次の日のモスクワ行きの切符は、今度はたいした手間もなく手に入った。
部屋は外国人用の高級ホテルということなのにかなりぼろかった。水道はきっちり止まらない。トイレの便座はちょうつがいが壊れている。テレビは置いてあるけど映らない。カーテンは引くとはずれる。部屋に据え付けのラジオは本体が取れてしまう。こんな部屋に日本で一万円以上払っていた。
イルクーツクの町へ出てみた。中国からやって来ると涼しいし、人は少なく、さびれた田舎町という風情で落ち着いた。
途中で闇両替屋につきまとわれた。もう列車内で済ましていて必要ないのでお断りしたが、千円で百ルーブルということだった。列車でも一ドル十四ルーブルだったので、このころの実勢レートは一ルーブル十円あたりということだったのだろう。
このころの正規の両替レートはすでに書いたように一ルーブル二十七円ほど。このレートは、この旅行を始める直前に旅行者用の特別レートとして公定レートから一気に十分の一に下がったものだった。それまでの公定レートは一ルーブル二百七十円ほどだった。さすがに実勢とそぐわないというので十分の一に下げたらしいのだが、まだ実勢レートとは三倍ほどの開きがあった。
この日の晩、列車で一緒だった日本人三人でホテルのレストランで食事を食べることになった。レストランのメニューにはルーブルで値段が書かれていたが、レートが引き下げられたばかりということもあって、過去の情報などからいろいろな不確かな情報が飛び交っていた。この時に問題になったのは、高級ホテルのレストランでは外国人に値段のルーブルを公定レートで計算して外貨払いさせられるらしい…という情報だった。
公定レートで計算されてしまうとかなりな値段になってしまうのでぼくたちはびびって三人でミンチカツと牛肉の料理を一人前とチャイ(紅茶)だけをたのんだら、結局ルーブル払いで一人二ルーブルで済んでしまいみんなで笑った(公定レートだと五百四十円、旅行者レートだと五十四円、実勢レートだと二十円)。
その他、町の喫茶店ではチャイと包子が四人で七ルーブル、露店のシシカバブが一本一ルーブルだった。
五日目、ホテルをチェックアウト。もう一晩そこに泊まるというK君のところに荷物を置かせてもらって、町をぶらぶらする。喫茶店に入り、キリル文字で書かれたメニューからコーヒーとアイスクリームとケーキともうひとつは適当に分からないけど指さしてたのんでみた。ウェイトレスの女の子はロシア語でなにかいっていたが、分からないのでそのままたのんだら、コーヒーとアイスクリームとケーキと「タバコが一箱」が出てきた。ロシアでは喫茶店のメニューにはタバコの銘柄がのっているので注意したほうがいい。
この日はバスの回数券(六カペイカの五枚つづり。百カペイカが一ルーブル)を買って適当に乗ったり、降りたりしたり、映画館へ行ってチケット(一・五ルーブル)を買ったはいいが、それが夜の回のチケットで見れずじまいだったりということをしながら時間をつぶした。ようするに観光するようなところは町なかにはなかったのだ。
夜になって駅へ。列車を待っているとホテルにたくさんいた日本人が続々とやってきた。列車が到着するとその日本人たちがみんな同じ車両だということが分かった。車両の半分以上は日本人だった。他の外国人旅行者もいたのでソ連の国際旅行社が外国人をひとつの車両に集めたようだった。
つづく
[脚注]
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広軌
広い線路の幅の規格のこと。中国とソ連では線路の幅が違うので車両はそのままで車輪のついた台座だけを広いものに交換した。
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ソ連のディーゼル機関車
現在ではこの路線は全線電化されているらしい。
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ホテルまでの例の送迎車
前回参照のこと
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公定レート
この原稿を書くためにインターネットで調べてみたところ、このころのソ連には三種類のレートが存在したらしい。公定レート(一米ドル=〇・五五四二ルーブル)、商業レート(一米ドル=一・六六二六ルーブル)、特別(旅行者)レート(一米ドル=五・五四二ルーブル)の三つ。公定レートは形骸化した名目上のもので、貿易などの経済活動には二番目の商業レートが使われた。三番目の特別(旅行者)レートというのがぼくが旅行した時期にできたもの。しかし、たいがいの旅人は闇両替していたので、公的なレートがいくらであっても関係がなかった。
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包子
ロシアや東欧の一部では包子や餃子(ポテト入り)など中国由来の料理がその国の料理としてなじんでいる。