前略、
チェコ・スロバキアはこの年(1993年)の1月1日、ぼくが入国する4ヵ月ほど前にチェコとスロバキアに分離独立した。
ぼくはこのことを2月にパリに来るまで知らなかった。少しの間住んでいたカナダのモントリオルのアパルトマンにはテレビもなかったし、新聞もたまにしか買っておらず、ラジオは聞いていたが、FMばかりだったので報道していても理解できずに聞きのがしていたのだろう。
ぼくは分離独立直後の1月11日に、モントリオルのチェコ・スロバキアの領事館で、そのことを知らないままに査証を取っていた。
パリで分離を知り、ベルリンまで来て、この二つの国の査証がどうなっているのか不安になってきた。モントリオルで取った査証にはチェコ・スロバキアと書いてある。この査証で両方の国に入れるのだろうか。
すでにベルリンの両国の大使館は二つに分かれていた。苦労してスロバキアの大使館を探しあて、査証を見せるとそれはチェコのもので、この査証ではスロバキアには入れないというので、さらに査証を取らなければならなかった。先に取ったのと全く同じデザインのスタンプで上にボールペンで「SR」とあるのが、スロバキア共和国の印らしい。チェコの物だといわれた査証をよく見ると「CR」と書いてあった。
その後、錯綜する情報の中、結局この頃は二つの国のうちの先に入る国の査証を持っていればいいらしいということが分かったが、後の祭りでだった(どこの国でも役所の人間というのはいい加減なやつらである)。
スロバキアに入国、プレショフに到着。
宿を探そうとすると安宿の一つは満員、一つは改装中、もう一つはすでに安宿とは呼べないほど値上がりしていた。この町には他に安宿はなさそうなので、さらに移動することにした。
バスで田舎町のスピシュスケ・ポドハラディエに行った。ここは安宿だけを求めていった場所だったのだが、町の真ん中の広く小高い丘に堂々とした中世の城跡が鎮座していた。安宿のだけを求めて行ったひなびた田舎町で突如として現れた大きな城跡を見つけて、それは単にぼくが知らなかったというだけなのだが、意外な発見にとても感動した。
そこでこの城が窓から見渡せる安宿も見つかった。宿には外国人はもちろん、観光客もぼく一人のようだった。城を見に行っても、その城と周りの広い丘には自分以外の人間は全くいないようだった。
ぼくはいくらきれいな観光地でも人でいっぱいのところはあまり好きになれない。この時、この田舎町の広大な城にいるのが自分だけだと思うと、満員の観光客と分かち合うどんな美しい観光地にいる時より気分がよかった。
草々
追伸、このウェブログに載せるために昔書いたこの文章を整理していて、スピシュスキ城のことをウェブで調べていたら、いつのまにか世界遺産に指定されていたことが分かった。1993年指定ということだからぼくが訪れた少し後ということだろう。
シーズンオフだったこともあるが、ぼくが訪れたときは本当に全く観光客はおらず、観光客はおろか城跡自体が閉鎖されていて門は閉まっていて管理人すらいなかった(誰もいないことをいいことに無理矢理中に入ったりしました。失礼)。