前略、
イスラエルへ。
中東をイスラエルも混ぜて旅をするとなると、旅人も中東問題は避けて通れない。
中東問題は簡単にいうと、「ユダヤとアラブはなんか仲が悪いらしい」ということに尽きるのだが、もう少しだけ詳しく説明してみる。
紀元前後にかけて、パレスチナのユダヤ人の国の滅亡と、その支配者への反乱の失敗などによって、彼らのパレスチナから世界中への離散(ディアスポラ)が始まる。その時からユダヤ人は自分たちの国を持つことなく世界中の国々で少数民族として生きることになる。
2000年ほど経ち、第一次大戦中の1915年、イギリスのマクマホン高等弁務官はメッカのフセイン太守との往復書簡で、その頃中東を支配していたオスマン・トルコが去った後はアラブに独立を与えるという協定を作って彼をイギリス軍に協力させておきながら、同時にフランスと戦後の中東の分割を約束をするサイクス・ピコ協定を結び、さらに1917年、バルフォア宣言でパレスチナにユダヤ人の国を作ることも約束するという悪名高き三枚舌外交を行った。
結局、戦後の中東は、パレスチナ(英)、トランス・ヨルダン(英)、イラク(英)、シリア(仏)、レバノン(仏)に分割され、英仏の委任統治領になり、その後イラクは1932年にイギリスから独立するが、その他の国が完全に独立をするのは第二次大戦の後になる。
1946年にトランス・ヨルダン、シリア、レバノンが独立するが、パレスチナはアラブ人とユダヤ人の衝突が激しくなり、イギリスは同年、問題を国連に委ねた。
国連は1947年、パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家、そして国連管理下のエルサレムの三つに分ける分割案を採択した。ユダヤ側はそれを受け入れたが、アラブ側は拒否し、問題の解決を見ないまま、1948年5月14日、イギリスはパレスチナの委任統治を終了し、完全に手を引く。同時にユダヤ側はイスラエルの独立を宣言した。そして、その翌日、エジプト、トランス・ヨルダン、シリア、レバノン、イラクのアラブ5ヵ国の軍隊がパレスチナに侵入、第一次中東戦争(独立戦争=イスラエルの呼称/パレスチナ戦争=アラブの呼称)になる。
1949年、休戦協定が結ばれ、この時の休戦ラインが事実上の国境となり、イスラエルは国連の分割案より広い範囲を領土とすることになる。パレスチナの範囲でイスラエルが支配できなかったヨルダン川の西岸はトランス・ヨルダンが自国に併合して、国名をヨルダン・ハシミテ王国とし、もう一方のガザ地区はエジプトが占領した。
1956年の第二次中東戦争(シナイ戦争/スエズ戦争)の後、1967年の第三次中東戦争(六日戦争/六月戦争)はイスラエルの圧勝で、彼らはヨルダン川西岸とガザ地区の他にエジプト領のシナイ半島全域とシリア領のゴラン高原を占領した。その後、1973年には、さらに第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争/十月戦争)が続いた。
第四次中東戦争の後、エジプトのサダト大統領がエルサレムを訪問し、1979年、イスラエルは前年のアメリカの仲介によるキャンプ・デイヴィッド合意に基づき、占領していたシナイ半島の返還と引き替えにエジプトと平和条約を結んだ。エジプトはこれによってアラブ諸国から断交され、1981年、サダト大統領は暗殺された。
1993年、パレスチナ暫定自治協定調印。
1994年、イスラエル、ヨルダン平和条約締結。
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