前略、
ブダペストから列車でルーマニアに入国した。
査証はチェコのプラハで取った。ルーマニアの査証は当時、国外で取っていかなくても、国境の駅で無料で発給されることになっていた。それにもかかわらずわざわざ他国の大使館に出向いてまで取りにいったのは、これまでの東欧諸国と同様、この国の官吏も腐敗していると聞いたからである。
この国に査証を持たずに入国すると、入国の係官は査証を発行するために必ずといってもいいほど査証代を請求するというのである。無料だということを知っていると反駁しても知らん振りをするか、その決まりは変わったと言われるのが落ちで、査証をもらえなければ入国できないという状況では彼らのほうが圧倒的に立場が強く、その時に旅人にできることといったら査証代を値切ることぐらいだといわれていた。査証代は直接彼らのポケットに入ってしまうので、料金は時によって違うし、値切ることができるということだった。
彼らの魔の手から逃れるのは難しいが、中にはその係官の写真を撮って、「金を取る積もりなら上役に言いつけるぞ」と、逆に脅して無料で発行させたという旅人もいた。
またハンガリーから査証を持っていったのにもかかわらず、ルーマニアへの入国を拒否され、ハンガリーに送り返されてしまったという日本人にも会った。彼のハンガリーの査証はシングルエントリーのものだったので、出国したことでそれはすでに失効しており、送り返されたハンガリーでも彼は入国を拒否されてしまった。
彼はハンガリーの係官に泣き付いて、その係官の思し召しによって、なんとかその時の出国記録をなかったものにしてもらいハンガリーに再入国できたが、もうちょっとで彼は残りの生涯のすべてをハンガリーとルーマニアの国境で過ごさなければならないところだった。
昼過ぎにハンガリーの国境駅に到着、出国は問題なし。さらに移動してルーマニアの国境駅に入った。停車すると列車の周りは騒々しくなった。車窓からは目立つ迷彩服を着た男たちがうろうろしているのが見えた。
ルーマニアの税関と入国審査はこれまでのどの国のものより徹底していた。とにかく、やけにいろいろな係官がコンパートメントに入っては出ていくのだ。
最初は二人組の男たちが来て、列車のコンパートメント内のカーテンの裏やテーブルの裏などを簡単に調べて1分足らずで出ていった。
次に別の二人組が椅子の下を開けて何か隠した物がないかを調べて、またすぐに出ていく。
今度は税関が乗客の荷物の中を軽く調べ、所持金の額を尋ねたが、出して見せろとは言わなかった。
さらに別の係官が来て、審査。普通は本人に書かせる出入国カードをいちいち一人ずつ係官が記入していった。
その後にアタッシェ・ケースを持った査証発行係らしき女性が来て、やっとお終いというわけである。
特にトラブルはなかったが、税関が来た時には、同じコンパートメントのルーマニア人で、国内で売りさばくためにハンガリーで買ってきたらしい荷物を山ほど持ち込んできていた個人国境貿易商人の男が、慣れた手つきで税関吏に10ドイツ・マルク札を渡そうとしているのを目撃した。その係官はそこでは受取らなかったが、その時に彼がぼくのほうをちらりと見て、「…ジャポネーズ…」などとぶつぶつ言っていたのは、「そこの日本人が見てるから、後で…」などという意味だったのかもしれない。
列車を入国させるたびに、5つのグループに分かれた大した役割もない7人もの係官が、時間を掛けて車両の全員を調べているの見ると、馬鹿馬鹿しいとも思ったが、自分に被害が及んでこない限り、それはその昔は他の共産圏でも行われていて、もっと徹底していただろうと思われる消えゆく神聖な伝統の儀式を見ているようで面白かった。
草々