[イスラエル]ヨルダンからの入国(または入域)

前略、

ぼくがイスラエルを訪れたのはヨルダンと平和条約を結ぶ前、パレスチナ暫定自治協定を話し合っている頃だった。平和条約を結んだことにより以下のヨルダンからイスラエルの入国手順は変わってしまったと思われるが、記録として書いておくことにする。

旅人にとって問題になるのは、アラブ諸国とイスラエルがいまだに戦争(休戦)状態で、イスラエルを国家として認めていないところである。これらの国の地図ではイスラエルのところには「パレスチナ」と書かれている。
イスラエルはまわりを敵であるアラブの国に囲まれていて、誰もその敵国との間を直接行き来することはできない。直接行き来できないだけでなく、過去に第三国からイスラエルに入国したことのある者も、アラブの国は自国に入国することを禁止している。イスラエルの方はアラブの国に滞在していても入国はできる。
では、アラブの国とイスラエルは全く行き来ができず、イスラエルに入国した者はその後、二度とアラブの国へ行けないかというとそういうわけでもなく、何にでも例外、抜け道、裏技というものがある。

まずイスラエルに入国した後にアラブの国に行く方法だが、アラブの国の入国審査官がどうやってその外国人がイスラエルに入国したことがあるかを調べるかというと、第一に旅券である。
旅券にイスラエルの査証や出入国スタンプのあるものは入国を認められない。しかし、これはイスラエルの当局が便宜を払ってくれて、頼めば(頼まなくても)出入国スタンプは旅券には押されずに出入国カードのみに押されるので、旅券に入国の証拠が残ることはない。その他、イスラエルを出た後にそのままアラブの国へ行く時はイスラエルのお金、切手など、イスラエルからと分かる物を持たないようにすればいい。

次にイスラエルとアラブの国の間を行き来する方法だが、二国間が戦争状態にある場合には、空路、海路、陸路とも一切交通機関が通っていないので、第三国を間に挟まなければならなかった。しかし、エジプトとの間には平和条約が結ばれ、戦争状態が終結したので、この国との間だけは国境は解放され、空路、陸路で直接、行き来することができるようになった。
ただしこのエジプト・イスラエル間の国境を陸路で渡った後に、他のアラブの国に行くのは大きな問題があった。イスラエルの出入国はすでに書いたように、頼めば旅券にはスタンプは押されないために滞在の証拠は残らず問題はないのだが、エジプトの出入国スタンプは押されてしまう。イスラエルとの間を陸路で行き来した時に押されるそのスタンプには、日付の他にエジプトの国境の地名が入っているので、その場所からエジプトに出入りできる国はイスラエルしかなく、つまり、それはイスラエルに滞在したという証拠になり、他のアラブの国へ行けなくなるのである。
エジプトを出てイスラエルに行く際には、係官によって頼めばスタンプを押さずに通してくれることもあるらしいが、必ずというわけではない。空路で飛ぶ場合には何の問題もない。

もう一つ注意しなければならないのが、アラブ以外の第三国から船や飛行機でイスラエルに来てエジプトに行く場合は、エジプトの査証をイスラエルのエジプト大使館で取ると、査証に発行地がテル・アビブであることが記載されるのでイスラエル滞在の証拠になる。もちろん他の国の査証でもイスラエル発行の物なら同じである。

では滞在の証拠を残さずにイスラエルへ入国する方法が、空路と海路しかないのかといえば、そんなことはなく、金を掛けずに陸路でイスラエルに入国して、しかも滞在の証拠が残らないという方法があった。
確かにエジプト以外にイスラエルと平和条約を結び、彼らを国として承認しているアラブの国は(この旅の時点では)なかった。しかし、1967年の第三次中東戦争でイスラエルがヨルダン領だったヨルダン川西岸を占領したことで裏技が可能になった。

イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区を占領したが、自国の領土とすることすることはしていなかった。二つの占領地をイスラエルの領土とすると、そこに住む大量のパレスチナ人にイスラエル国籍を与えざるを得なくなり、国民の非ユダヤ人の比率が一気に高まってしまうなど問題が大きいからだ。
ちなみに、占領地以外のイスラエルの領土に住んでいるパレスチナ人には、イスラエル国籍が与えられている。つまり彼らはアラブ系イスラエル人となる。彼らにはイスラエル軍への徴兵の義務はない。
ヨルダンは第一次中東戦争の後、ヨルダン川西岸を自国に併合して、そこの住民や自国に逃げてきたパレスチナ難民にヨルダン国籍を与えている。そのため、国民の半分以上がパレスチナ人ともいわれている。
そんな状況の中、イスラエルは経済力の格差の大きいヨルダン川西岸の占領地に住むパレスチナ人労働者やそこで作られる安価な物資が自国に大量に流入して経済のバランスが崩れることを恐れて、それらの流入を厳しく制限した代わりに、そこから東岸のヨルダン領への橋を開き、人や物の往来を認めるという「オープン・ブリッジ政策」を採った。
1988年にヨルダンは西岸の法的・行政的関係を自国から分離・放棄したのだが、この政策はこの時も続いていた。
この「オープン・ブリッジ政策」によって、ヨルダンと西岸の占領地を行き来できるのは、イスラエルが西岸を占領した時にそこにいたパレスチナ人で、彼らはヨルダンに行って帰ってくることができた。占領時、東岸のヨルダンまで逃げたものは、西岸に戻ることはできない。
その政策になぜか外国人旅行者も相乗りでき、ヨルダンからヨルダン川西岸に陸路で入り、戻ってくることができた。西岸の占領地に入れるということは、外国人にとってはイスラエルにも入れるということなのである。
ヨルダン側はその橋からの占領地への出入りは正式な出入国と見なしていなかったために出入国スタンプを押さない。つまり、そこからヨルダン川西岸(イスラエル)に入ったという証拠は残らないのだ。

まず、ヨルダンからヨルダン川西岸に行くには入域許可証がいる。アンマンにある内務省に行き、申請用紙に必要事項を書き、収入印紙を100フィルス分(約15円)貼って、旅券と一緒に窓口に出す。旅券は確認が済んだら返してくれる。
その足で査証の延長に行く。アカバの港でもらった査証の滞在期間は2週間で、ヨルダンは西岸との行き来を出入国とは認めていないので、イスラエルの滞在もヨルダンのものと二重に計算されるため、長くなる場合は査証の延長が必要なのである。
2日後、再び内務省に行き、許可証を受け取る。

西岸に行く当日の早朝、ミニバスでヨルダン川の橋の手前の管理事務所まで行く。そこで許可証を見せて登録をして、エアコンの付いたデラックスなバスで出発する。ヨルダン川を渡れるのは料金の高いこのバスだけなのである。
途中、2回ほど旅券のチェック・ポイントがあった後、ヨルダン川に着き、そこに架かるキング・フセイン橋を渡る。ヨルダンとイスラエルの占領地の境界であるヨルダン川は幅の狭い、水量の少ない川で簡単に飛び越せそうだった。キング・フセイン橋も王様の名を冠している割には木と鉄骨で造ったぼろぼろの短い橋だった。

イスラエルの占領地に入るとキング・フセイン橋と呼ばれていた橋はアレンビー橋と名を変える。さらに行くとバスはイスラエルの出入国管理事務所に着く。ヨルダンはこの出入りを出入国とは認めてないが、イスラエルはここからを出入国とする。この事務所はユダヤ教の安息日である土曜日は閉鎖される。
金属探知機を通り、入国審査をする。イスラエルの入国に日本人は査証は必要ない。そこでは頼まなくても自動的に入国スタンプは出入国カードだけに押され、旅券には押さないようだ。税関の検査はアラブ系以外の外国人には厳しくない。ただ、カメラを出して天井にレンズを向けて一枚シャッターを切るように言われた。爆発物の検査らしい。
他には食べ物を持ってないかと聞かれた。チョコレートとスナック菓子を持っていたのでそう答えると、外国の食物の持ち込みは禁止なので、その場で食べてしまうか捨てるかするようにいわれた。さらにこの国では世界でも珍しい入国税を取る。4.5シェケル(約160円)
建物の内外にはマシンガンを肩に掛けた女性の軍人がいた。イスラエルには徴兵制があり、しかも、女性も徴兵されるという特異な国である。18歳の時から男性は3年、女性は2年弱の兵役に就かなくてはならないそうだ。
待ち時間は長かったが、入国は問題はなかった。
そこから再び、バスに乗り、エリコで乗り換えて、エルサレムへ向かった。

草々