前略、
イランのイスラム革命の後もアメリカの誤算は続いた。
革命の年、ホメイニ師の革命評議会に支援されたとされるイラン人学生により、テヘランのアメリカ大使館がイラン政府の転覆を狙うCIAのスパイの巣窟であるとして、襲撃・占拠されるという事件が起こった。52人の大使館員などを人質にしたこの占拠は444日間も続いた。
次第にホメイニ師を頂点とする国家体制は固まりだし、革命を境にしてイランとアメリカの関係は180度変わり、お互いを「帝国主義の大悪魔」「テロ支援国家」と呼びあうラブリーな仲になる。そして、この時以来「大悪魔」であるアメリカ国籍を持つ者はイランに入国することができなくなった。
旅人の立場からいえば、アメリカ人旅行者はユーラシア大陸を陸路横断するときに最もポピュラーであるパキスタン〜イラン〜トルコというルートが通れないので、ロシアか中央アジアを通るしかなくなった。
タブリズに滞在した後、ぼくはせっかくイランまで来たのだからと、世界一大きな湖であるカスピ海を一目見ようと、バンダレ・アンザリ行きのバスに乗った。
バンダレ・アンザリでバスを降りたのはぼく一人だった。他の乗客はもう少し行ったラシュトという町まで行くらしい。まだ夜明け前の4時だった。
すぐ近くにあった宿はベルを鳴らしても反応はなく、歩道で鞄の上に座って夜明けを待っていた。パトカーの警察官に不審尋問などを受けたりしながら、秋の夜長をやり過ごしていた。
車が時々通るのだが、そのうちの一台から軍服を来た若い男が降りてきた。男はぼくに気が付くと近づいてきて話しかけてきた。タブリズでのこと以来、イラン人の若い男と話すのは気が重かったのだが、彼はイラン人には珍しく滑らかでなかなかうまい英語で話しかけてきた。この国では学校で英語を教えていないらしく、英語の普及率はこれまで訪ねた国の中で最も低かった。一般の市民に英語は全く通じないといっていい(そのかわりとても流暢な日本語を話すイラン人がけっこういる。日本にいたことのある人たちである)。
彼は前のような失礼な奴ではなく、宗教の話もしてこなかった。そしてアメリカの悪口をいうこともなかった。それもそのはずでしばらく話していると、彼は問わず語りにびっくりするような話を始めた。
彼は以前アメリカに住んでいたというのだった。
彼と彼の家族はアメリカのフロリダ、その前はワシントンに住んでいたというから、テニス・プレイヤーのアンドレ・アガシのような革命以前に移民をしたイラン系アメリカ人だったのだ。
彼らはアメリカからイランの親戚を訪ねるという名目で革命後のイランの入国を許されたらしい。無事イランに入国して親戚に再会した後、アメリカに帰ろうとすると当局は空港で彼らの出発を許さず、全員にイランからの出国を禁じてアメリカの旅券を取り上げてしまったのだそうだ。
アメリカに彼の父親の仕事も彼らの家も財産も友人もすべて残したまま、彼らは遥か遠くのイランという国の中に軟禁され自分たちの国に帰ることができなくなってしまったのだった。
彼の父はこの時には、アラブ首長国連邦のドバイで働いているということだが、彼自身は徴兵を受けていて、これから軍に戻らなくてはならないということだった。家族のうちの誰かは人質としてイランにいなければならないということなのだろうか。
彼はぼくがそこにしばらくいられるのなら、休みの時に遊べるのにといった。残念ながら滞在期間が2週間しかないのでそれはできそうになかった。
彼は英語を話したのも久し振りだといった。ぼくは彼にこの国に来たのはいつなのか尋ねた。それは10年前、彼が10歳の時だったそうだ。
彼の英語を聞いた時、比較的滑らかな英語だとは感じたが、母国語だとは思わなかった。英語を話す人の極端に少ないこの国では英語が多少危うくなるのも仕方がないだろう。
彼はまたこの国に来る予定はあるかと尋ね、ぼくが分からないというと連絡先を書いてくれた。彼はぼくと話せて楽しかったというと、来た時と同じように車をヒッチハイクして出発してしまった。
彼と実際に話していたのはほんの30分ぐらいだっただろうか。
ただ、親戚に会うためだけに両親に付いてちょっとした旅行気分で来た、宗教も文化も文字も言葉も全く違う、しかも自分の生まれた国を最大の敵としている異国に突然閉じ込められ、故国に戻れなくなった10歳の少年はそれをどう理解したのだろう。
それからの10年はどんなものだったのだろう。
国と国との仲違いに巻き込まれてしまった彼ら家族はこれからどうなるのか。
彼と彼の家族が「祖国」に戻れる日ができるだけ早く来るように願っている。
草々
前略、
イラン入国。イラン西部の最初の大きな町であるタブリズに着いた。
タブリズはきれいな町だった。
ぼくはイランのことをこれまでの中東のアラブ諸国と同じくらいか、それよりおくれた途上国と勝手に思い込んでいて、トルコを出たら辛い旅になるのではないかと覚悟していたので、タブリズのきれいな町並みを見て驚いた。パリのように掃除夫が道路の脇の溝に水を勢いよく流しごみを掃除しているのをよく目にした。
1925年、混乱のイランを支配した軍人レザ・ミルザは、パフレビー朝を興して国王に収まり、レザ・シャーを名乗ってトルコをモデルにした近代化政策を取るようになった。
第二次大戦中ドイツを支援していたシャーはイギリス軍とソ連軍に攻め込まれ、王を退位させられ息子のモハメッドに王位を譲り、南アフリカに亡命した。
1953年、民族運動、反国王運動などが起こり、息子の二代目国王のレザ・シャーは国王は議会の全権を掌握した首相モサデクとの権力闘争にも破れ、イタリアに脱出せざるを得ない状態にまでなった。しかしイランの巨大な石油利権を手放したくないアメリカとCIAの支援による軍部の逆クーデタ(カウンタークー)が成功してシャーは国王に復帰する。
1962年、アメリカと強い繋がりを持ったシャーは父がやった政策をさらに押し進め「白色革命」という土地改革や婦人参政権などを含む近代化政策を開始した。国王の封建政治と民族運動の弾圧などにもかかわらず、アメリカなどの援助と豊富な石油収入でイランの経済は急成長した。イランはその頃、トルコに次ぎ近代化を押し進めていた国だったのだ。
タブリズの町をまわった後、公園でベンチに座って休んでいたら、若いイラン人が近づいてきて隣に座って話しかけてきた。彼は学生で数学を勉強してるという。彼はぼくに数学が得意かと尋ねてきて、ぼくがまあまあだと答えると、持っていたノートの連立方程式を示して解けといい出した。
ぼくが断ると、この失礼な男は今度は聞いてもいないのに自分の意見を話しだし、素晴らしい予言を高らかに披露してくれた。
「21世紀にはアメリカは滅び、イスラム世界が笑う時が来るだろう…」
彼は絶対の自信を持ってそういいきった。
彼の予言の前半部分にはなかなかするどいものがあるように思えるが、後半部分については希望的観測に過ぎるのではないかと思う。
勝手にどんどん続く話を聞いていると、アメリカが滅びるのはきりぎりすのように自滅するというのではなく、イランとアメリカが戦争をして彼らがアメリカを滅ぼすということらしい。彼は近い将来、自分がアメリカと戦うことになるだろうということに確信を持っていた(当時のぼくはそんなことはあり得ないと思っていた。イランは戦争を仕掛けるほどバカではないと。しかし最近の情勢を見ていて戦争を仕掛ける可能性があるのはイランの方ではないのだと分かった)。
彼はさらにぼくに神を信じるかと尋ねてきた。
まともに話をする気がすっかりなくなってしまったぼくが投げやりに、しかし正直に「Not at all(少しも)」と答えると、やがて彼はどこかに行ってしまった。
イスラムを賛美して、アメリカをこき下ろすスローガンはこの国ではあらゆるところで目にした。この学生の言葉を聞いたらホメイニ師も来世でさぞお喜びであろう。
白色革命の頃、宗教をないがしろにする国王の近代化政策に反対するホメイニ師は宗教指導者として頭角を現わしていた。彼はシャーとイランを乗っ取ろうとする帝国主義者の国であるアメリカを批判し、民衆を煽動した。
いきすぎた煽動がたたって、1963年に彼は当局に逮捕されトルコへ国外追放になりそこからイラクに亡命したが、彼はそこからも様々なメッセージを信奉者を通じてイランに送り続けていた。
1977年、イラクにいるホメイニ師からイランへの内政干渉が両国の協定に違反しているとして、イラクからも追放された彼はフランスへ移動した。
その頃イランの比較的順調だった経済政策は破綻し、過剰な治安体制、王家の国有財産の浪費、宗教の抑圧、社会経済の混乱などにシャーへの不満は爆発して、ストライキやデモが増え、ホメイニ師はフランスからも彼らを煽動し、やがて王制への反対運動は最高潮に達した。
シャーは政治の民主化を約束し実際に試みたりしたが、国民はすでに王の追放以外では収まらなくなっており、万策尽きたシャーはついに1979年エジプトに亡命する。
イランの利権を手放したくないアメリカはシャー抜きでも親米の新政権の樹立を目指し、再びCIAなどを通じてあらゆる工作を続けたが、宗教的に大きな力を持ちすでに神格化されていたホメイニ師が危険を冒してイランに帰ってきた段階から、アメリカの挽回のチャンスは小さくなっていった。
草々
前略、
ギョレメは奇岩が集まったカッパドキアと呼ばれる地域にある小さな村である。この地域全体の地盤が風化や浸蝕を受けやすい岩でできているのできのこか、ロケット、またはムーミンの家にも似た細長い塔のような大小の岩が数え切れないほど立ち並び、さらに昔からそこの住民がこの柔らかい岩を削り、中をくりぬき住居や寺院、礼拝堂を作り、それらは巨大な蟻塚のようにも見える。今でも岩の住居を宿にしているところもある。
ドゥバヤズットはトルコの東端の街で、外を見ると山頂に雪を被った大きな山が見える。ノアの箱舟が漂着したといわれているアララト山である。富士山を遥かに越える5000メートル級の山だが、町自体が高地にあるためかあまり高くは感じない。
イシャク・パシャ・サライ
草々
前略、
シリアからトルコへ。
イスタンブールには前回の旅で来ていたこともあってのんびりと過ごした。
だが、その頃そこで滞在するにはちょっと注意が必要だった。観光客を狙ったある犯罪が増えていたのだ。
ルーマニアの友人はトルコに行くと催涙スプレーを吹き掛けてくるような強盗がいるから絶対行くなと忠告してくれた(トルコは近隣国の人たちにたいがい評判が悪い)が、イスタンブールにはそれに近い睡眠薬強盗というものがはやっていた。
旅行者のカモに同じ旅行者などを装った犯人が近づいて話しかけ、しばらく一緒に観光などをして親しくなり安心させたところで、犯人はカモに紅茶などを勧めてくる。それにはたっぷりの睡眠薬が入っていてカモは眠り込んでしまい、その間に犯人は貴重品をゆっくりと盗むというものである。
中には親しくなるまで丸1日以上一緒に行動して安心させる者や、喫茶店で出された紅茶なので大丈夫かと思ったらそれに薬が入っていたり、固形物なら大丈夫かと思ったらクッキーなどに塗り込んであったりと手が込んでいるらしい。
しかもその睡眠薬の量がかなりのものらしく、一口飲んだり食べたりしただけで、すぐに効いてきて、おかしいと思ったときにはもう立ち上がることもできずに昏倒してしまうというほどのものらしく、その後気付いた時には貴重品を盗まれて真夜中の広場で独りぼっちということになるらしい。
イスタンブールに来るまでは噂が大きくなってるだけで、大したことはないのだろうと思っていた。日本人のたまる安宿には日本の大使館からのその犯罪に関する御触書きまであったが、それでも事なかれ主義の外務省はいつもおおげさに書くからと思っていた。
でも泊まっていた宿で実際に被害者の一人に会ったり、冬に被害にあって眠り込んでしまって凍死してしまった人がいるなどという話を聞くとさすがに気をつけなければという気になった。
聞いた話の中からひとつ変わったものを紹介する。
ある二人組の旅行者がこの犯罪に遭い、そろって睡眠薬で眠らされてしまった。気付いたら一人からは貴重品が根こそぎ盗まれていたのに、もう一人のほうからは何も盗まれていなかったという。盗まれなかったほうが持っていたバッグの中にはお土産に買っておいたコーランが一冊入っていたらしい。犯人が大変「敬虔な」イスラム教徒だったために助かったというはなし。
もともとイスタンブールは観光客の非常に多い街なので、怪しげな客引きや物売りなども昔から多いところだった。
どんどん増えている最大の「お客さん」である旅行者の国の言葉を覚えて、「コンニチワ」「スイマセン」「日本人デスカ」「トテモ安イヨ」「見ルダケ、タダ」などの商売用語を駆使する連中がとても多く、それらの言葉で話しかけても知らん振りを決め込む東洋人には、後ろから「落チテマスヨ」と、声を掛ける。日本人なら思わず振り向いて下を見るので、最大のお客を見逃すことはない。それでも相手にされなければ、「馬鹿ヤロ〜!」と、捨て台詞を浴びせ掛けるというなかなか楽しい町なのである。
イスタンブールの観光地で日本語で話しかけてくるトルコ人はほとんどが商売人で、しかも怪しげな片言の日本語を駆使するだけなので「日本語を話すトルコ人=いんちき商売人」という図式ができあがっていてほとんど逆効果なのだが、彼らはまだあまりそのことに気付いてないようである。
ある絨毯屋のオヤジは日本にいたこともあり、日本語を完璧に話すのだが、外で使うと詐欺師だと思われるだけなので使わないといっていた。彼は日本人にお茶を出すとき「砂糖と睡眠薬はどれくらい入れましょうか」と、イスタンブール・ギャグを飛ばしていた。
このころちょうど2000年のオリンピックの開催地が決まった。イスタンブールも立候補していたのだが、見事に落ちてシドニーに決まった。イスタンブールの市民には悪いが、当然の結果といえるだろう。
イスタンブールはその後もしつこく立候補をつづけていたらしい。2012年のオリンピックにも立候補していたそうだが、あっさり一次選考で落選した。天敵ギリシャのアテネに先を越され、まさかの中国北京にも負けて、ショックは隠せないだろうが、とりあえず治安をよくしてから出直してきてほしい。
草々
前略、
エジプト カイロ
エジプト シーワ・オアシス
エジプト ルクソール
「インディ・ジョーンズ 最期の聖戦」でおなじみ
ヨルダン ペトラ
イスラエル エルサレム
シリア ダマスカスの肉屋
シリア ハマ
草々
前略、
シリア入国、首都ダマスカスへ。
宿を見つけて安い部屋を見せてもらうと窓のない牢獄のような部屋だったが、何日もいるわけではないからいいだろうと、その部屋に入って昼間から電灯をつけていた。
しばらくそのまま休んでいて昼過ぎになると突然電灯が消えてしまった。窓がないのでドアを閉めていると真っ暗である。ヒューズでもとんだのだろうとしばらく待っていたが、電灯はなかなかつかなかった。部屋を出て、宿のオヤジに尋ねた。
「停電だ」と、彼は答えた。「毎日2時から6時までだ」
「毎日?!」
この町では水不足の地域が時間断水をするように、毎日決まった時間に「断電」をしていた。そういえば、来る途中歩道にやたらと発電機が並んでいるのを見かけたし、部屋のベッドサイドのテーブルにも焼け焦げと溶けたろうが付いていた。窓から外を見ると高級ホテルやレストラン、一部の商店などが歩道に出した発電機で自家発電をしていてエンジンの騒音が町中に響いていた。
パルミラへ。
そこには紀元前後にシルクロードの隊商都市として栄え、その後ローマ帝国に滅ぼされた町の遺跡があり、ギリシャ・ローマの文化に影響を受けた神殿、劇場などが残っている。
そこでも停電があり、そこの場合は時間が決まっているわけではなく不定期のようで、ある日は暗くなるまで停電が続いた。
その日、宿の屋上に上り、寝袋をひいて寝転んでいると、空が次第に暗くなるにつれて星が見え 始めた。砂漠のまん中のオアシスの町であるそこには、まわりに空気を澱ませるものは何一つない。乾燥しきっているので雲さえない。この時には町で微かな星の光を見えにくくする最大の原因であるまわりの人工の光も若干の自家発電の光以外は全くなかった。
星は満天に広がり、日本の都会で見える何十倍もの数の星が見え、銀河系が天の川としてはっきりと白い帯に見えた。星くずとはよくいったもので、星が見え過ぎて漆黒の空が光の粒で汚れているようだった。
草々
前略、
ぼくがイスラエルを訪れたのはヨルダンと平和条約を結ぶ前、パレスチナ暫定自治協定を話し合っている頃だった。平和条約を結んだことにより以下のヨルダンからイスラエルの入国手順は変わってしまったと思われるが、記録として書いておくことにする。
旅人にとって問題になるのは、アラブ諸国とイスラエルがいまだに戦争(休戦)状態で、イスラエルを国家として認めていないところである。これらの国の地図ではイスラエルのところには「パレスチナ」と書かれている。
イスラエルはまわりを敵であるアラブの国に囲まれていて、誰もその敵国との間を直接行き来することはできない。直接行き来できないだけでなく、過去に第三国からイスラエルに入国したことのある者も、アラブの国は自国に入国することを禁止している。イスラエルの方はアラブの国に滞在していても入国はできる。
では、アラブの国とイスラエルは全く行き来ができず、イスラエルに入国した者はその後、二度とアラブの国へ行けないかというとそういうわけでもなく、何にでも例外、抜け道、裏技というものがある。
まずイスラエルに入国した後にアラブの国に行く方法だが、アラブの国の入国審査官がどうやってその外国人がイスラエルに入国したことがあるかを調べるかというと、第一に旅券である。
旅券にイスラエルの査証や出入国スタンプのあるものは入国を認められない。しかし、これはイスラエルの当局が便宜を払ってくれて、頼めば(頼まなくても)出入国スタンプは旅券には押されずに出入国カードのみに押されるので、旅券に入国の証拠が残ることはない。その他、イスラエルを出た後にそのままアラブの国へ行く時はイスラエルのお金、切手など、イスラエルからと分かる物を持たないようにすればいい。
次にイスラエルとアラブの国の間を行き来する方法だが、二国間が戦争状態にある場合には、空路、海路、陸路とも一切交通機関が通っていないので、第三国を間に挟まなければならなかった。しかし、エジプトとの間には平和条約が結ばれ、戦争状態が終結したので、この国との間だけは国境は解放され、空路、陸路で直接、行き来することができるようになった。
ただしこのエジプト・イスラエル間の国境を陸路で渡った後に、他のアラブの国に行くのは大きな問題があった。イスラエルの出入国はすでに書いたように、頼めば旅券にはスタンプは押されないために滞在の証拠は残らず問題はないのだが、エジプトの出入国スタンプは押されてしまう。イスラエルとの間を陸路で行き来した時に押されるそのスタンプには、日付の他にエジプトの国境の地名が入っているので、その場所からエジプトに出入りできる国はイスラエルしかなく、つまり、それはイスラエルに滞在したという証拠になり、他のアラブの国へ行けなくなるのである。
エジプトを出てイスラエルに行く際には、係官によって頼めばスタンプを押さずに通してくれることもあるらしいが、必ずというわけではない。空路で飛ぶ場合には何の問題もない。
もう一つ注意しなければならないのが、アラブ以外の第三国から船や飛行機でイスラエルに来てエジプトに行く場合は、エジプトの査証をイスラエルのエジプト大使館で取ると、査証に発行地がテル・アビブであることが記載されるのでイスラエル滞在の証拠になる。もちろん他の国の査証でもイスラエル発行の物なら同じである。
では滞在の証拠を残さずにイスラエルへ入国する方法が、空路と海路しかないのかといえば、そんなことはなく、金を掛けずに陸路でイスラエルに入国して、しかも滞在の証拠が残らないという方法があった。
確かにエジプト以外にイスラエルと平和条約を結び、彼らを国として承認しているアラブの国は(この旅の時点では)なかった。しかし、1967年の第三次中東戦争でイスラエルがヨルダン領だったヨルダン川西岸を占領したことで裏技が可能になった。
イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区を占領したが、自国の領土とすることすることはしていなかった。二つの占領地をイスラエルの領土とすると、そこに住む大量のパレスチナ人にイスラエル国籍を与えざるを得なくなり、国民の非ユダヤ人の比率が一気に高まってしまうなど問題が大きいからだ。
ちなみに、占領地以外のイスラエルの領土に住んでいるパレスチナ人には、イスラエル国籍が与えられている。つまり彼らはアラブ系イスラエル人となる。彼らにはイスラエル軍への徴兵の義務はない。
ヨルダンは第一次中東戦争の後、ヨルダン川西岸を自国に併合して、そこの住民や自国に逃げてきたパレスチナ難民にヨルダン国籍を与えている。そのため、国民の半分以上がパレスチナ人ともいわれている。
そんな状況の中、イスラエルは経済力の格差の大きいヨルダン川西岸の占領地に住むパレスチナ人労働者やそこで作られる安価な物資が自国に大量に流入して経済のバランスが崩れることを恐れて、それらの流入を厳しく制限した代わりに、そこから東岸のヨルダン領への橋を開き、人や物の往来を認めるという「オープン・ブリッジ政策」を採った。
1988年にヨルダンは西岸の法的・行政的関係を自国から分離・放棄したのだが、この政策はこの時も続いていた。
この「オープン・ブリッジ政策」によって、ヨルダンと西岸の占領地を行き来できるのは、イスラエルが西岸を占領した時にそこにいたパレスチナ人で、彼らはヨルダンに行って帰ってくることができた。占領時、東岸のヨルダンまで逃げたものは、西岸に戻ることはできない。
その政策になぜか外国人旅行者も相乗りでき、ヨルダンからヨルダン川西岸に陸路で入り、戻ってくることができた。西岸の占領地に入れるということは、外国人にとってはイスラエルにも入れるということなのである。
ヨルダン側はその橋からの占領地への出入りは正式な出入国と見なしていなかったために出入国スタンプを押さない。つまり、そこからヨルダン川西岸(イスラエル)に入ったという証拠は残らないのだ。
まず、ヨルダンからヨルダン川西岸に行くには入域許可証がいる。アンマンにある内務省に行き、申請用紙に必要事項を書き、収入印紙を100フィルス分(約15円)貼って、旅券と一緒に窓口に出す。旅券は確認が済んだら返してくれる。
その足で査証の延長に行く。アカバの港でもらった査証の滞在期間は2週間で、ヨルダンは西岸との行き来を出入国とは認めていないので、イスラエルの滞在もヨルダンのものと二重に計算されるため、長くなる場合は査証の延長が必要なのである。
2日後、再び内務省に行き、許可証を受け取る。
西岸に行く当日の早朝、ミニバスでヨルダン川の橋の手前の管理事務所まで行く。そこで許可証を見せて登録をして、エアコンの付いたデラックスなバスで出発する。ヨルダン川を渡れるのは料金の高いこのバスだけなのである。
途中、2回ほど旅券のチェック・ポイントがあった後、ヨルダン川に着き、そこに架かるキング・フセイン橋を渡る。ヨルダンとイスラエルの占領地の境界であるヨルダン川は幅の狭い、水量の少ない川で簡単に飛び越せそうだった。キング・フセイン橋も王様の名を冠している割には木と鉄骨で造ったぼろぼろの短い橋だった。
イスラエルの占領地に入るとキング・フセイン橋と呼ばれていた橋はアレンビー橋と名を変える。さらに行くとバスはイスラエルの出入国管理事務所に着く。ヨルダンはこの出入りを出入国とは認めてないが、イスラエルはここからを出入国とする。この事務所はユダヤ教の安息日である土曜日は閉鎖される。
金属探知機を通り、入国審査をする。イスラエルの入国に日本人は査証は必要ない。そこでは頼まなくても自動的に入国スタンプは出入国カードだけに押され、旅券には押さないようだ。税関の検査はアラブ系以外の外国人には厳しくない。ただ、カメラを出して天井にレンズを向けて一枚シャッターを切るように言われた。爆発物の検査らしい。
他には食べ物を持ってないかと聞かれた。チョコレートとスナック菓子を持っていたのでそう答えると、外国の食物の持ち込みは禁止なので、その場で食べてしまうか捨てるかするようにいわれた。さらにこの国では世界でも珍しい入国税を取る。4.5シェケル(約160円)
建物の内外にはマシンガンを肩に掛けた女性の軍人がいた。イスラエルには徴兵制があり、しかも、女性も徴兵されるという特異な国である。18歳の時から男性は3年、女性は2年弱の兵役に就かなくてはならないそうだ。
待ち時間は長かったが、入国は問題はなかった。
そこから再び、バスに乗り、エリコで乗り換えて、エルサレムへ向かった。
草々
前略、
イスラエルへ。
中東をイスラエルも混ぜて旅をするとなると、旅人も中東問題は避けて通れない。
中東問題は簡単にいうと、「ユダヤとアラブはなんか仲が悪いらしい」ということに尽きるのだが、もう少しだけ詳しく説明してみる。
紀元前後にかけて、パレスチナのユダヤ人の国の滅亡と、その支配者への反乱の失敗などによって、彼らのパレスチナから世界中への離散(ディアスポラ)が始まる。その時からユダヤ人は自分たちの国を持つことなく世界中の国々で少数民族として生きることになる。
2000年ほど経ち、第一次大戦中の1915年、イギリスのマクマホン高等弁務官はメッカのフセイン太守との往復書簡で、その頃中東を支配していたオスマン・トルコが去った後はアラブに独立を与えるという協定を作って彼をイギリス軍に協力させておきながら、同時にフランスと戦後の中東の分割を約束をするサイクス・ピコ協定を結び、さらに1917年、バルフォア宣言でパレスチナにユダヤ人の国を作ることも約束するという悪名高き三枚舌外交を行った。
結局、戦後の中東は、パレスチナ(英)、トランス・ヨルダン(英)、イラク(英)、シリア(仏)、レバノン(仏)に分割され、英仏の委任統治領になり、その後イラクは1932年にイギリスから独立するが、その他の国が完全に独立をするのは第二次大戦の後になる。
1946年にトランス・ヨルダン、シリア、レバノンが独立するが、パレスチナはアラブ人とユダヤ人の衝突が激しくなり、イギリスは同年、問題を国連に委ねた。
国連は1947年、パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家、そして国連管理下のエルサレムの三つに分ける分割案を採択した。ユダヤ側はそれを受け入れたが、アラブ側は拒否し、問題の解決を見ないまま、1948年5月14日、イギリスはパレスチナの委任統治を終了し、完全に手を引く。同時にユダヤ側はイスラエルの独立を宣言した。そして、その翌日、エジプト、トランス・ヨルダン、シリア、レバノン、イラクのアラブ5ヵ国の軍隊がパレスチナに侵入、第一次中東戦争(独立戦争=イスラエルの呼称/パレスチナ戦争=アラブの呼称)になる。
1949年、休戦協定が結ばれ、この時の休戦ラインが事実上の国境となり、イスラエルは国連の分割案より広い範囲を領土とすることになる。パレスチナの範囲でイスラエルが支配できなかったヨルダン川の西岸はトランス・ヨルダンが自国に併合して、国名をヨルダン・ハシミテ王国とし、もう一方のガザ地区はエジプトが占領した。
1956年の第二次中東戦争(シナイ戦争/スエズ戦争)の後、1967年の第三次中東戦争(六日戦争/六月戦争)はイスラエルの圧勝で、彼らはヨルダン川西岸とガザ地区の他にエジプト領のシナイ半島全域とシリア領のゴラン高原を占領した。その後、1973年には、さらに第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争/十月戦争)が続いた。
第四次中東戦争の後、エジプトのサダト大統領がエルサレムを訪問し、1979年、イスラエルは前年のアメリカの仲介によるキャンプ・デイヴィッド合意に基づき、占領していたシナイ半島の返還と引き替えにエジプトと平和条約を結んだ。エジプトはこれによってアラブ諸国から断交され、1981年、サダト大統領は暗殺された。
1993年、パレスチナ暫定自治協定調印。
1994年、イスラエル、ヨルダン平和条約締結。
草々
前略、
アテネ
ミコノス島
草々
前略、
エジプトのシナイ半島にあるヌエバから船に乗り、ヨルダンのアカバに到着。
入国をすまして町まで来た時には すでに暗くなっていた。ホテルを探して部屋が空いているか訊ねると、高い部屋しか空いていないという。しばらく交渉していると屋上になら安くで泊まれるという。もう後は寝るだけだし、アカバには特に見るものもないようなので、次の朝にはすぐ出発することにして屋上に泊まった。
屋上に泊まるといっても部屋があるわけではなく、ただ屋上にベッドがいくつかあって、そこの吹きさらしの空の下で寝るのである。このあたりは昼間はとても暑いが、湿度が低いので日が暮れると涼しく、朝方は寒いくらいなので、昼間の熱のこもった階下の部屋より過ごしやすい場合もある。雨に降られる心配もほとんどなく、宿の規制も甘いのでこのあたりの国ではこの方式を取る安宿も多い。それまであまりに無防備な感じがするので屋上に泊まったことはなかったが、たまには満天の星空を見ながら眠るのも悪くなかった。
翌日の早朝、町に鳴り響く大きな音で目が覚めた。アザーンである。
イスラム教徒には、最小限度しなければならない「六信五行」という、6つの信じることと5つの実行することがある。
六信とは「アラー」「天使」「経典」「預言者」「来世」「宿命」を信じることで、五行とは「信仰告白」「断食」「喜捨」「巡礼」「礼拝」を実行することである。
彼らは1日に5回、夜明け、正午、午後、日没、夜中にメッカの方向(キブラ)に向かって、特有の立ち上がったり額を地面につけて平伏したりを繰り返す「礼拝」をしなければならない。
キブラはモスク(イスラム寺院)があれば壁にミフラーブという壁の窪みがあり、それがキブラを示している。なければ自分のいる場所と方位から見当をつけてだいたいの方向を向いているようだが、最近は便利なハイテクグッズもある。
その礼拝の時間を知らせるためにモスクのミナレット(尖塔)から出される合図がアザーンである。アザーンは最初に「アラーフ・アクバル(神は偉大である)」と4度繰り返すなど決まった言葉を詠唱する。昔は人が塔に登って地声で詠唱したそうだが、今ではほとんどのところがミナレットに付けたスピーカーによって放送している。詠唱は1回ごとに生でするのが基本らしいが、中にはテープのところもあるようだ。
街の中に突然、いくつものモスクからほぼ同時に流れ出すアザーンのしらべは、イスラム圏のエキゾチックな雰囲気を醸し出す重要な要因で、同じアラビア語の言葉を詠唱していても国によって、またモスクによって、さらには生で詠唱するために1回ごとにも少しずつ節まわしが違ったりしていて興味深く、同じところに長く滞在している時などは、今回のアザーンは気合いが入ってるなとか、今日のアザーンは声が違う、いつもの人は休みなのだろうかなどと考えたりもするようになる。
それでも1日に5回、毎日聞かされてると、異教徒にとってははっきりいってうるさい。問題なのは1回目のアザーンで、夜明けというとことになっている1回目のアザーンは、夏なら5時前になることもあり、早朝だろうと何のお構いもなしに最大音量でアザーンは流される。エジプトのハルガダでは宿の近くにモスクがあったから、毎朝、必ず5時前に起こされていた。
他の五行の「断食」とは、イスラム歴(ヒジュラ歴)の第9の月であるラマダンの月の1ヵ月間、太陽が出ている間は断食をしなければならないというもの。転じて旅人は断食のことをラマダンと呼んだりする。
イスラム歴というのはメッカで迫害されたマホメットがヤスリブに移住した年(西暦622年)を元年とする月の満ち欠けを元にした太陰暦で、1年が354日(30年に11回ある閏年は355日)なので、暦と季節とは毎年少しずつずれてくる。ラマダンの月が夏にあたるようになると陽が長くなるので彼らの苦労もひとしおであろう。緯度の高いところへ行くとさらに陽が長くなったりするのだが、全能の神様はそのあたりをどうお考えになっていたのだろう。
実は旅人もこの月にイスラム圏を旅すると苦労させられる。異教徒はもちろん断食に付き合うことはないのだが、昼間は食堂や食料品店が一切閉まってしまうし、断食している人の前で食事することははばかられるので付き合わされることになる。
「喜捨」とは富める者が自発的に貧しいものに分け与えること。
「巡礼」はメッカのカーバ神殿に巡礼すること。第12の月である巡礼月の7日から10日にするのが最もがよいとされている。巡礼を済ませた人をハッジと呼ぶ。
朝早く目が覚めてしまったので、そのままアカバを出発した。
草々
前略、
カイロから、夜行列車でアスワンへ。
一気に最南の都市まで下ったので、暑さもかなりなもので、体温計で気温が計れた。ある日の夕方4時のホテルの室内の気温は39.5度、計ったのは電子体温計だったが、水銀式の物だと鞄に入れて外を歩いている間に温度が上がり過ぎて破裂することもあるそうだ。
安宿にはエアコンがないので、夜はベッドのマットレスが電気毛布のように熱く、何度も水をまいて気化熱で冷やさないと眠れなかった。世界には体温計では気温が計れないほど暑くなるところも多いので、この程度は大したことないという人もいるだろうが、ぼくは40度のアスワンとマイナス10度のモントリオルなら、まだモントリオルのほうがましという人間なのでこの暑さはたまらない。
夜中の3時半に起きてアブ・シンベル神殿の半日ツアーに出る。エアコンもないボロいワゴン車が来て、いくつかの安宿で客をピックアップした後、出発した。
砂漠の中をひたすら4時間ほどひた走ると、アスワン・ハイ・ダムでナイル川を堰止めてできた人口湖のナセル湖のほとり、スーダンの国境に近いところにある神殿に着く。
この神殿は3000年以上前の新王国時代にラムセス二世が作らせたものなのだが、3000年後、ダムができる時にナセル湖に沈む場所にあったので、大きなブロックに切り刻んで今の場所に移転させたそうだ。
2時間ほどの見学の後、帰途に着く。再び、砂漠の中をひた走る。行きは夜明け前からの涼しい時間だったので眠って来られたが、帰りはまだ午前中とはいえ、すでに十分に激しい太陽の下で砂漠を突き進んでいくことになる。
ぼくはこの道のりを甘く見ていて、アスワンを出る時、ミネラル・ウォーターを1リットルほどしか持ってきてなくて、その水は帰り道の早いうちになくなってしまった。神殿の売店にも水は売っていたのだが、足元を見てかなり高い値段になっていたし、まだ残っていたので大丈夫だと思って買わなかったのだ。
水が切れてしばらくすると、ぼくの体は脱水症状を呈してきた。口を開けると水分がそこからどんどん逃げていくのが分かるような気がする。目からも湯気が出てるんじゃないかと思うほどだ。この辺りでは汗をかくこともない。実際はかいているのだが、すぐに蒸発して乾いてしまうので肌はいつもさらさらなのである。
手が震えだした。地平線には蜃気楼があって、道の先にある丘をいくつ越えても次の丘が見えるだけで、町は見えてこない。
アブ・シンベル神殿へはお金を出せば飛行機で行ける。他には全く何もない場所に神殿の観光だけのために空港があるのだ。それが無理でも、少しお金を出せばエアコンの付いた観光バスでも行けるのに、それをケチったためにサスペンションが壊れてがたがたと揺れ、開けた窓からは体温より熱い完全に乾ききった熱風が吹き込むワゴン車でぼくは干からびて生きながらミイラになろうとしていた。
薄れゆく意識の中でぼくはユニセフを恨んだ。移転する時にアスワンまで持ってきて組み立ててくれればこんな苦労はせずに済んだのだ。いや、それをいうならラムセス二世が先だ。3000年前に彼がこんな辺鄙なところ(当時は今ほど辺鄙ではなかったのかもしれないが)に建てず、素直にルクソールに立てておけば…。
「ラムセス二世のアホ〜!」
草々