前略、

カナダの首都オタワへ。
ここのユース・ホステルは元・刑務所で、手を広げれば届くほど幅の狭い独房の壁を、2〜3つぶち抜いて広げて2段ベッドが2〜3台入った部屋に寝泊まりする。つまり、昔は囚人が2〜3人しか入っていなかったところに、今はその倍の4〜6人泊めているのだ。我々の扱いは囚人以下なのか!(しかもお金まで払っている)

鉄格子もそのままなので、通路から部屋は丸見えで、ぶち抜きの部屋の鉄格子のうちの一つがドア代わりになる。軋む音が通路に響いて少々うるさい。建物の上には公開絞首刑台があり、縄の輪っかも付けたままにしてある。
週に数度、無料の所内見学ツアーが行われ、一般の観光客が牢屋とその中のベッドに寝転がっている旅人を見学にくる。
お化けが出るといわれている部屋もあって、そこに1晩泊まると次の日はただで泊まれるという。お化けの部屋はともかく、普通の部屋でも気持ちが悪いといってすぐ出ていく人もいた。想像力豊かな人は、昔同じ場所にいた人のことを考えてしまうのかもしれない。ぼくは面白くて、気に入った。

さらに東へ行ったニュー・ブランズウィック州のキャンベルトンには現役の灯台の建物を使ったユース・ホステルがある。
その他に泊まった変わり種宿といえばスウェーデンのストックホルムには船のユース・ホステルがあった。
[写真は灯台ユース・ホステルとカナダのユース・ホステル会員証]

草々

 

前略、

映画のDVDの音声をmp3化してiPodにおとしたのはいいものの、すでに見た映画ならなんとか雰囲気で筋は追えるとはいうものの、ぼくのような語学初心者には個々の台詞の聞き取りは何回聞いたってさっぱりわからない。
そこでシナリオがほしくなる。
日本の出版社でも日本語訳がついたシナリオの本を売っているけど、だいたいが一部のメジャー映画に限られている。
地元アメリカだとクラシックからインディペンデントまでけっこういろいろな映画のシナリオが出版されていて、日本でも大きな書店や通販で入手可能だ。
例によってインターネットでもダウンロードができる。
All Movie Scripts dot Com | Free Movie Scripts & Screenplaysなどからシナリオがダウンロード可能だ。ほんの一部読んだだけだけど、シナリオは最終決定稿ではないことが多いため、実際の映画とは違っている場合が多いようだ。どれぐらい違っているか、どこがカットされたのかをさがすのもまた楽しいのではないだろうか。

草々

 

2004年5月のブログ投稿

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ミャンマーには車が多い。
ミャンマーに田舎な国を想像していった人たちは意外に都会で騒がしいミャンマーの町に驚いてしまう。ぼくのようなラオスが大好きな人間は、ミャンマーも勝手にラオスのような「なにもない田舎ないい国」ではないかと期待して行ってしまうので最初は面食らうのだ。

ミャンマーには車が多くて、そのほとんどが日本の中古車だ。
まずヤンゴンの空港に降り立ったとき(今どき珍しくタラップで滑走路に降りる)から名古屋の市バスが出迎えてくれる。広告やペイントも日本にあったときのままだ。
町を走るバスも日本各地からやってきた中古バスである。
長距離バスだと「○○観光」とボディにペイントされたままの大型の観光バスが走っている。

日本の車をミャンマーで使うには不都合な点が多々ある。
ミャンマーは「車は右側通行」で「距離はマイル表示」なのだ。
元イギリスの植民地で日本軍にも占領されたことがある国だが、なぜか右側通行(隣国タイはこれまたなぜか左側通行)で、これは右ハンドルの日本車を走らせるには不都合で長距離バスに乗っているととても怖い。運転手から前の見通しが利かないので追い越しがとても危険なのだ。
もちろん対策もなされていて長距離バスだと交代の運転手や助手がのっているので、左側の窓やドアから乗り出して前を確認する。
それから独特のウィンカーの使い方がある。
日本なら普通追い越すほうがウィンカーをつけて知らせたりするらしいが、ミャンマーでは追い越されようとしている前の車がウィンカーを出して後の車に追い越しても大丈夫だということを知らせるシステムになっているようだ。
市バスにはさらに問題があって日本の市バスは乗降口が左にしか付いていないのである。つまりミャンマーだと道の真ん中に向いてドアがついていることになり、さすがにこれでは危険だということでミャンマーの市バスは右側に無理矢理ドアを増設して使っている。

距離にマイル表示をつかっているのでスピードメーターが分かりにくいだろうと思ってミャンマー人に訊いてみたが、スピードメーターはほとんど壊れているので問題ないとのことだ。まあ、みんなかなり古い中古車なのでそれほどのスピードは出ないだろう。

日本のままのペイントで走っているのはバスだけではなく、乗用車やピックアップトラックも日本にあったままのペイントやバンパースティッカーで走っている。
ヤンゴンでは日本の自動車教習所の教習車がそのままのボディペイントと「仮免許練習中」というプレートを後ろにつけて走っていた。しかもその車はタクシーとして使われていた。仮免許のタクシーはいやだな。

以前行ったことのあるパキスタンでもそうだったが、日本語のペイントはかっこいいと見なされているようで、後から長方形で囲んだ「自家用」のへたくそな文字を書き込んだりしているものもあるし、ほとんど意味不明なものもある。
よく見かけたのが「勇者が古都にあいまみえる」とペイントしたものだ。
だれかが意味も分からずにどこかの日本語の資料からトレースした雛形が広まったということなのかもしれない。

ミャンマーのような豊かとはいえない国でなぜこんなに車が多いのかということは疑問に思っていたのだけど、あるミャンマー人に訊いてみたところミャンマーは産油国であるとわかってかなり納得がいった。
しかし車が多い割には道の整備がよくなくて、特に乾期には町中でも砂ぼこりがたち、長距離バスに乗ると着く頃には車内は砂ぼこりだらけ。体や持ち物が汚れるくらいはたいしたことないのだけれど、呼吸といっしょに体内にはいるので、ミャンマーにいる間中、のどの痛みと咳、痰には悩まされた(マスクを持っていくとよいかも。暑いからだめかな?)。
日本の中古車が入ってくる前はアメリカ軍のウィリスジープがたくさん走っていたそうで、田舎に行くともう明らかに何十年もたっているだろうと思われるのにまだけっこう現役で走っています。

最後にヤンゴンの空港の滑走路で走っている名古屋の市バスの「次止まります」ボタンはまだ使用可能であるということ付け加えさせていただく。

草々


5月17日
この宿でおもしろい光景を見た。宿泊者の1人がクレジット・カードで宿代を払っていたのである。電気も電話も水道もない、トイレも穴の中にしている1泊8ドルの山小屋でクレジット・カードが使えるのだ。思わず笑ってしまった。
ビューティ・クリークはきれいなところだったが、まわりに特に見所がないのと、また食料問題が出てきたので1泊で出発した。

アサバスカ・フォール・ホステルに到着。
なんと、このユース・ホステルにはあの素晴らしい文明の光、電気が、電話があった。水道はないが、川の水から井戸に昇格、煮沸する必要がなくなった。そして、食料があった。
ここでも、自転車旅行をする20人くらいの団体にあった。彼らのグループも組織的で、自前で用意したらしい修理・食料運搬・応急手当用のレンタカーの小型ヴァンが伴走してきていた。
ただ一つ、前に会ったグループと違うのは彼らが全員、5〜60歳くらいの男女ということだった。彼らはヴァンクーヴァから来てジャスパー、バンフ、クートネイ、ヨーホーの国立公園をまわるという。その中の一人の女性は以前、自転車でユーコン準州を北上して北極圏のイヌヴィクまで行ったこともあるという。こっちのおじさん、おばさんのヴァイタリティには恐れ入る。
この夜も彼らの作り過ぎて余ったという夕食をいただいた。

5月19日
雪のため出発を延期し、宿で暇をつぶす。はちどりを発見。

5月20日
小雨。もう1泊も考えたが、これ以上は何もすることがないので強引に出発する。しばらくして雨はやんだ。
ロッキーの北の入口ジャスパーに到着。
ユース・ホステルはここから7キロ戻った山の上のウィスラー・マウンテンと、10キロ先のマリーニュ・キャニオンにある。自転車なので山じゃないほうがいいと考え、マリーニュ・キャニオンへ行った。


5月21〜24日
この間はジャスパー周辺の湖などを見てまわった。
バンフからジャスパーまでの約300キロを3週間近く掛けて走ったのだが、このルートは観光バスなら半日で通り過ぎてしまう所である。ハイウェイ沿いにたくさんあったユース・ホステルもひとつずつぐらいは飛ばしても行けるほどの距離だったが、せっかくだからとすべてに寄って泊まっていった。
このユース・ホステルにも自転車で旅をしている連中が集まっていた。
日本人のナオキとはカルガリーでもアサバスカ・フォールでも会っている。エドモントンからレッド・ディア経由でロッキーに入ってきた。
カナダ人のトニイはモスキート・クリーク・ホステルのマネージャで、休暇を取ってヴァンクーヴァ・アイランドをまわっていたらしい。
もう一人の日本人のツヨシは2ヵ月前に日本を出てきたのだが、高校の頃から構想していたという自転車世界一周の旅をアラスカのアンカレッジから始めたばかりという男だった。彼はこの計画に4年を予定しているという。

全くの偶然によってこの一点で同時に交わった4つの旅の軌跡は、一瞬の邂逅の後に再びそれぞれの方向へ延びていった。
ナオキは白夜の北極圏を見てみたいといって、イヌヴィクへ向かって出発した。
トニイはモスキート・クリーク・ホステルの仕事が待ってるので、ロッキーを南下して行った。
そして、ツヨシも壮大な計画の実現に向けて、特別仕様の自転車、飛脚号のペダルを踏んで遥かなゴールへと、ロッキーを南へ向かった。
そして、ぼくの思いつきのほんのちっぽけな自転車の散歩はとりあえず終わった。

草々

追伸、世界一周を目指して出発した「ツヨシ」のその後は
出会いが宝・・・Tsuyoshi Machii
自転車世界一周 11万6780km 117カ国 2242日間の旅
をごらんください。

5月15日
大雪…。しかも、吹雪いている。多少の天気の崩れは問題ないが、こんなに崩れてしまってはとても自転車では出発できない。どうしよう…。
宿の管理人に、ベッドがなければキッチンの床でもいいから泊めてくれないかと頼むと、彼は承諾してくれた。これで宿の問題はなくなったが、まだ大きな問題があった。その日の昼の食事で、わずかに残った半人前ほどのスパゲティを食べて、ぼくの食料は底を着いてしまった。
そして夕方に高校生ぐらいの団体が自転車でやってきた。自転車でのツーリングを専門にしている会社が引率していて、屋根に自転車を載せて運べるようになっている大型のバスが伴走してきている。今日は自転車ではなくそれに乗ってきたのだろう。なにしろ、ユース・ホステルを予約してきているのだから予定が決まっているに違いない。
彼らは早速、夕食を作り出した。20人ほどのグループなのだが、食事係が全員の食事を作るのではなく、数人ずつがそれぞれ自分たちの好きな料理を作って食べているのが個人主義の国らしい。
キッチンに座って誰かが、「余ったから食べない?」といってくれないかと待っていたのだが、彼らもこのところは毎日自転車に乗ってきているので腹が空いているのか、ほとんど残さずに食べている。人が食べようとしているものを横取りする度胸はぼくにはなかった。
ほとんどみんなが食べ終わって、あきらめかけていたところへ、さらに同じ団体の2人の若者がやってきて夕食を作り出した。彼らは自分たちのたった2人分の食事なのに、1袋900グラム入りのスパゲティ(5〜6人分はある)を鍋に全部、放り込んで茹でてしまった愚か者…、いや、天使のようなお坊ちゃまだった。
もちろん、彼らはスパゲティを山のように残した。そしてぼくは彼らが食べ物を粗末にするを見るのは忍び難かったので、声を掛けて残りのスパゲティを処分してあげた。
神様ありがとう。

5月16日
晴れ。もう食べるものは何にもないので、朝食抜きで早速出発する。
しばらく行くとアサバスカ氷河に着く。ここもカナディアン・ロッキーの目玉のひとつで巨大な氷河がハイウェイのすぐ近くに口を開けている。
見た目にはすぐ近くに見えるが、氷河はいくら歩いても近づいてこない。あまりに大きいので距離間がつかめないのだ。氷河の前に置かれた車が米粒のように小さく見えるので、まだまだ遠くにあることが分かる。
氷河の爪先まで来て、さらに氷河を登る。まだ午前中だったので人も少なく、雪の降った次の日だったので、氷河の4分の1あたりまで上ってくるとまだ足跡の全く付いていないところに入っていった。さらに新雪を踏み締めながら3分の2ほどのところに来た時、ぼくは突然バランスをくずして雪の中に倒れ込んだ。雪の下の氷河が割れて穴があき、右足が腿まではまり込んでしまったのだ。薄くなって割れた氷河の下には冷たい水がたまっていた。あわてて足を引き抜いたが膝まで濡れてしまった。
まわりには誰もおらず、氷河の上のほうの付け根には17ドル出してスノーモービルに乗ってそこまで行った人たちの姿が小さく見えていた。
ここまでは意気揚々と登ってきていたのに、雪の下の氷が意外に薄く、しかもその下に水がたまっているのが分かると、ぼくの想像力は途端に否定的に働き始めた。


さらに進み、今度は氷が大きく割れ、体がすっぽりはまり込んでしまう穴に落ち、誰にも気づかれないまま、氷の下の冷水の中であっという間に体が麻痺し、そのまま窒息死し、そのうちにぼくの体は氷河の下で冷凍されてしまうのだ。
氷河の爪先まが3キロ、氷河が1日に30センチ流れるとすると、氷河の爪先の氷が解けてぼくの事故当時のままの死体が見つけ出されるのは約30年後ということになる…。
いくら30年後でも冷凍保存の死体を蘇生する技術はないだろう。
とにかく、ぼくはそこから先へ進む気がしなくなってしまい、そのまま真横に進路を変え、スノーモービルの道から元へと帰ることにした。
その後は、このところのパスタ攻撃(この5日間は1日最低1回は食べていた)で悲惨な目にあっているぼくの体をいたわるため、氷河の向かいにあるカフェテリアでステーキを食べた。
さらに進んでビューティ・クリークへ。
ここのユース・ホステルはビューティ・クリークの名の通り、サンワプタ川の広い広い河原のとても美しい場所にある。


つづく

5月10日
ユース・ホステルには掃除などの仕事を宿泊者で分担してやらなければならないところがある(choresという)。ロッキーのユース・ホステルはほとんどが1人か2人だけで管理しているので仕事は宿泊者に割り振られる。この日は薪割りをやった。

5月11日
目覚めると外が真っ白になっていた。夜の間、ずっと雪が降ったようだ。まだかなり曇っているので、出発は延期する。もう5月だというのに。

5月12日
雲の間から青空がのぞいている。出発だ。次のユース・ホステルまでは64キロで、この行程の中で最も距離がある。
その間にクロウフット氷河、ボー湖、ボー氷河があり、その後の坂道を上りきったところが、このカナディアン・ロッキーのバンフからジャスパーを結ぶハイウェイの最高地点であるボー峠(2066メートル)である。
その辺りから少し支線に入っていくとペイト湖の見える場所に出る。このなめくじの形をした湖も、湖水の色がとても美しいことで有名なのだが、水は完全に氷結していて上から雪が積もって真っ白であった。この頃は比較的観光客も少なくていいのだが、まだ雪も多いし少々時期が早すぎたようだ。



夕方、ランパート・クリーク・ホステルに到着する。
ロッキーもこの辺りまで来ると野生動物が増えてくる。バンフでも少し街から離れれば、鹿やビッグ・ホーン・シープはいくらでも見られるが、町の近くには出てこない動物も多い。ここにはハイウェイは通っているものの人里からはだいぶ離れている。ここまで来て熊を見ることができた。
最初は遥か彼方の道を横切るでっかいグリズリーだったが、二度目はユース・ホステルのすぐ近くの道路の脇の草を食べている黒熊を10メートルほどのところからずっと観察することができた。


5月13日
この宿の近くには、特に見るところはないのでのんびりと過ごす。
その日の朝に出発していった人がスパゲッティとマッシュルームの缶詰の残りを置いていってくれた(あるいは、単に忘れていった)ので、それをありがたくいただく。ロッキーにおいて食料は貴重品なのだ。
レイク・ルイーズを出てからは店らしい店は全くなく、一度、ハイウェイの合流点にドライヴ・インがあったが、売店に食べ物は土産物とお菓子などしかなかった。
今回、ぼくは荷物が重くなるので食料はほとんど持ってこなかった。ロッキーのユース・ホステル・ガイドの小冊子には、どのユース・ホステルに食料品の買い置きがあるかが示してあり、この買い置きの食料品だけが生きる糧なのである。

5月14日
出発する。バンフを出て、ボー峠で2000メートルを越した高度は、ランパート・クリーク・ホステルの辺りで1500メートルぐらいまで下ってきていたのだが、再び、道は上り始めた。急激に、長く、しつこく。
いつまでも続く上り坂に音を上げ、自転車を降りて押して上る。何キロもしつこい上り坂が続いて、再び、2000メートル近くまで上ったところがサンワプタ峠で、そのすぐ手前にヒルダ・クリーク・ホステルがある。
北に来るに連れて、だんだんとユース・ホステルの設備、環境が悪くなってきた。これまでは寝室用の小屋は男女別になっていたが、ここは一つだけで男女共同、水道替わりの小川もこれまではすぐ近くに流れていたのに、5分ほど歩いていかなければならなかった。
しかも、ガイドには食料品の買い置きありと書いてあるのに実際にはなかった。この日は幸い、前のユース・ホステルから持ってきていたスパゲティが残っていたので、夜はそれを食べた。そしてさらに悪いことに、ここには2泊ぐらいしようと思っていたのに、次の日に団体の予約が入っていて満員になるというのだ。
食料もないので、その次の日に出発することにした。特に問題はない。次の日の天気のことが少し心配だが、次のユース・ホステルまでは遠くないし、峠はほぼ登り切ってしまったので多少の天気の崩れでは問題はないだろう。

つづく

5月3日
自転車でバンフ周辺のミネワンカ湖、ヴァーミリオン湖、サンダンス峡谷などに行って、鈍り切っていた自転車用の筋肉を鍛えてバンフを出発する。
3時間ほどでユース・ホステルのあるキャッスル・マウンテンに着く。カナディアン・ロッキーには、まるで自転車旅行の人のためのようにハイウェイ沿いの数十キロごとにユース・ホステルがあるので、キャンプの用意をしていく必要がないのだ。
ユース・ホステルの向かいにはガス・ステーションとバンガロー兼業の食料品店があり、町よりちょっと割高だが食料が買えた。
思えば、ちょっと割高などといっているうちはよかったのだ。


5月5日
キャッスル・マウンテンを出発、レイク・ルイーズへ。
レイク・ルイーズはバンフの次にある観光拠点なのでデラックスなホテルが建ち、マーケットなどもあり、ちょっとした街になっている。

5月6日
ルイーズ湖へ。
5月だというのにまだ湖が凍っていた。バンフでは少し残雪がある程度で、湖は全く凍ってなかったので驚いた。絵葉書などにあるこの湖はとてもきれいな澄んだ緑色をしていて、それを期待していたのにがっかりである。


5月7日
日帰りでモレイン湖へ。この湖への道はまだ雪が残っているということで閉鎖されていたが、自転車は入ることができた。
モレイン湖とその後ろに広がるテン・ピークスと呼ばれる山々はカナダの20ドル札の裏にも描かれていて、日本でいえば富士山のような国を代表する風景のようだが、車道は雪が残っているため閉鎖され、レイク・ルイーズからはかなり距離があるので観光客は全くいなかった。


5月8日
朝から真っ黒な雲が出ていたので出発を延期、昼から雨が降りだし、その後、雪に変わった。

5月9日
晴れ。出発する。
モスキート・クリーク・ホステルへ。ここまでくるとユース・ホステルは設備のいい山小屋風になり、電気、電話、上下水道がなくなる。
キッチンと照明はプロパン・ガスを使い、暖房はガスと薪を併用する。水は近くを流れる小川からポリタンクで直接汲んできてガスで約5分以上煮沸消毒する。小川の水はもちろんロッキーの雪解け水で冷たく澄んでいて、一見、何の問題もなさそうで、実際に直接飲んでもおいしいのだが、注意しないとビーヴァー・フィーヴァーというビーヴァーのおしっこに含まれる成分で起こる熱病に掛かることがあるそうだ。
トイレは外に一人用の小屋がいくつかあって、中にはちゃんと洋式の便器があるのだが、その下は地面に穴があいているだけである。シャワーはもちろんない。
驚いたことに、電気のないこの宿に冷蔵庫があった。最初は単に保温のためかと思っていたのだが、扉を開けるとヒンヤリと冷たい。よく見るとガスの管がつながっている。日本にもガス冷房などというものがあるので同じ仕組みなのだろうが、どうなっているのかはさっぱり分からない。
ここまでくると食料品店はもちろん、その他の店も全くないのだが、ユース・ホステルに食料品のストックがあり売ってもらえる。


つづく

前略、

カナディアン・ロッキーの南の入り口であるバンフに着いた。
ロッキーは美しい自然と野生動物が見られる場所だが、見所は広い範囲に散らばっている。バンフだけを取ってみてもそうで、近くの湖といっても何キロも離れている場合が多い。それらを観光するにはレンタカーを借りるのが一番便利な方法なのだが、ぼくは免許証を持っていないので、次善の策は観光バスということになる。
ぼくも最初はそう考えていたのだが、バンフの周りぐらいはレンタバイクで行くほうが安上がりでおもしろいと思って店に行ってみた。この場合のバイクとは自転車のことである(ぼくは原付の免許も持っていない)。
レンタバイク屋に行くとレンタル料が思ったよりかなり高くて、この計画はすぐに諦めなければならなかった。しかしこのレンタル料なら安い自転車を買ってしばらく使うほうが得なのではと思いついて自転車屋へ見にいくと、安いものがあり、丸1日迷ったのだが、思い切って買うことにした。18段変速のマウンテン・バイクで199.99ドル。鍵やスタンド、後ろの荷台も買って税込みで250ドルほどだった。


つづく

非・解決編

さて、賢明なる読者諸君はこの事件をどう思われただろうか…。

この実際に起こった事件には、もちろん解決編などはなく、たまたまカジノに遊びに来ていたというロサンゼルス警察の殺人課の警部補も灰色の脳細胞を持ったベルギー人も現れない。

事件後、以前の宿でフロントの女性に事件の話をした。
「エディにだまざれたんじやないの」
開口一番、彼女はそういった。
「スマート・エディ…」と、彼女は続け、首を振った。
もちろん、ぼくにしても彼が怪しいということは事件直後から頭の中にあった。こちらの最大の失敗は、ぼくのほうから先にグランド・キャニオンに行こうと声を掛けたことだ。人は向こうから声を掛けてきた場合には警戒するが、自分のほうから悪人に声を掛けるとは思ってもみないのである。
ただ、彼がこの事件の実行犯でないことは確実である。ぼくは事件当夜、モーテルを出てから帰るまでずっと彼と一緒だったのだ。しかし、共犯者、実行犯が別にいたと仮定すると、怪しい要因は数限りなくある。それらを時系列で上げてみる。

▼カジノで儲けたといって、やたらとおごってくる気前の良さ。

▼日本の紙幣を見せてくれといって、ぼくにバックパックの中から1万円札を出させている。

▼公衆電話から電話ばかりしていた。イギリス人の旅行者である彼がアメリカで誰と話していたのか。

▼宿を犯行現場になるモーテルに移ろうといい出している。ぼくが断ると自分で金を出してまで移らせた。

▼宿を移らせた後、さっそくトップレス・バーに誘い、ぼくが再び断ると、また金は自分が出すといって、モーテルから誘い出すことに成功している。ただのバーではなくトップレス・バーというところも怪しい。もちろん、何度もいうようだが、ぼくは飽くまでも退屈していた。

▼モーテルの部屋の鍵は彼が持っていた。出る時に彼は鍵を締めていたし、帰った時にも鍵は締まっていた。網の張られた窓が破られた形跡もないので、実行犯は鍵を持っていたと考えられる。
しかし、彼の持っていた鍵が部屋を出た後に共犯者に受け渡された可能性は低い。バーに行くまでには、一緒だったスウェーデン人を始め、たくさんの人に会っているので手渡すことは簡単だったはずだが、バーからの帰り、タクシーを拾う時にエディは先に帰るかとぼくにいったぐらいだから、彼はその時には鍵を持っていたはずで、犯行後に鍵を回収する時間はなかった。ただ、彼がその時、ぼくに鍵を見せたかどうかはよく覚えていない。

▼モーテルの鍵がバーに行ってから帰るまでの間に、彼から誰の手にも渡ってないとしても、鍵は実物があれば、数分で簡単に合鍵を作ることができる。モーテルに投宿してからバーに行くまでの間に、彼は鍵を持って外出しているので、その時間は十分にあったはずである。
しかし、このことからは、実行犯が彼とは全く関係のない我々より以前にその部屋に泊まった人物ということもできる。

▼バーから出た時、彼は自分はカジノに寄るが君は先に帰るかと、ぼくを先に帰りたがらせているような口振りだった。犯行現場にぼく一人で帰らせようとしたのだろうか。犯行現場を目の当たりにして一人で狼狽する外国人を想像して楽しむつもりだったとすれば、悪趣味極まりない。

▼二人でモーテルに帰り、荒らされた部屋を見た後、彼は荒らされた自分のバッグの中を確認しようともせず(実際に全く触れもせず)、フロントに行き、警察に電話を掛け、そのまま盗まれた物は衣服とマネー・ベルトであると報告し、盗まれた現金の金額までも申告している。

▼よく分からないのが、ぼくが電話で盗まれたものを報告した後、彼が「腕時計も盗まれたんじやないのか」と尋ねてきたことだ。確かに腕時計を二つ持っていて、そのうちの一つは部屋に残していて、盗まれていたのだが、安物なので忘れていたのだ。
なぜ、本人の忘れていることを彼が知っているのか。知っていたとしても、どうしてそれをわざわざぼくに尋ねたのか。エディはその時、「モーテルのマネージャがいったのだがノ」と、後から付け加えた。それはまずいと思っていった苦し紛れの嘘だったのか、本当にモーテルの親父がそういったのかは分からないが、もし本当に彼がそういったのなら、彼も容疑者の中に入ってくる。この場合は、部屋の鍵のことなどは一切考えなくていいことになる。

▼犯行現場もおかしい。我々がモーテルを離れた時間、つまり犯行時間は19時から22時の間である。その間に荷物をひとつ残らず念入りに調べあげ、金目の物のみを根こそぎ持っていったのである。これは何時間も掛かる仕事ではないが、数分でできるとも思えない。犯人我々のことを知らない人物なら、我々が三時間も部屋を開けるかどうか分からないはである。食事をして30後には戻ってくるかもしれないし、10分後かもしれない。19時からという時刻を考えれば、それは十分にあり得ることである。それにもかかわらず、犯人は夜もまだ浅い時間から鍵を開けて堂々と部屋に入り、念入りに中を荒らしているところをみると、犯人は我々がある時刻までは帰ってこないということをあらかじめ「何者か」から「電話」か何かで連絡を受けて知っていたのではないかと考えられる。

▼クレジット・カードが盗まれていることを知って、ぼくが日本に届けを出そうとしたら、エディは自分が出してやるから今しなくていいなどと、届けを出すのを妨害しようとしたとも取れる言動をした。

▼警察への報告の後、彼は何時間も外出して深夜まで戻らなかった。いったい、何をしていたのか。共犯者のところへ首尾の確認にいったのか。

▼事件の次の日、強引にアメックスのオフィスまで付いてきた彼は、旅行者用小切手が再発行されたことを見届けると、金を貸してくれといい出した。うがった見方をすればぼくの荷物から金目のものを盗んだものの、現金は10万円ほどだけで、旅行者用小切手、旅券は闇市場に持っていかねば金にはならず、クレジット・カードは停止されてただのプラスチックの板に成り下がり、カメラ、ウォークマン、時計は中古で大した金にはなりそうもない。
思ったより金にならなかったために、さらにもうひともうけ企んだともみられる。両親や領事館に頼めといっても言葉を左右にして取り合わなかった。

▼長時間にわたるいい争いに嫌気が差したぼくは、彼のマインド・コントロールにはままるようにして金を掃き出したが、ぼくから金を巻き上げることに成功した彼は、まっすぐカジノヘ向かった。最初からそのための金がほしかったのか、残念ながらイギリスに帰るためには足りないので得意のスタッド・ポーカーで増やそうとしただけなのか。

これらの状況証拠からは彼の犯行であることはかなり濃厚なのだが、物的証拠は全くない。
もし、彼が犯人なら、ぼくは泥棒に追い銭をした銭形平次以来の大馬鹿者ということになる。
前回の旅では盗難、紛失、病気、けがなどは一切なかったのだが、今回は出発たった一週間目にして手痛い洗礼を受けてしまった。

この後、ぼくは金曜日、在サン・フランシスコの日本総領事館へ行き、旅券の再発行を受け、しばらくのあいだサン・フランシスコでのんびりと過ごして再び旅を続けた。

草々

モーテルの部屋の中は泥棒が入った後のドラマのシーンのようだった。
衣服はそこら中に投げ出ざれ、袋に入っていたものはすべて開けられ改められて中身が床に散らばっていた。バックパックは南京錠を掛けて、さらにチェーン・ロックでベッドの足につないであったのだが、バックパック自体がナイフで切り裂かれていた。

エディがすぐにモーテルのブロントに届けて、警察に違絡した。ぼくはしばらくショックでへなへなと座り込んでいたが、やがて盗まれた物を調べにかかった。この時、ぼくは愚かにもほとんどすべての貴重品を部屋に残していた。そして、そのすべてはきれいになくなっていた。犯人は荷物を念入りに調べ上げて、金目のものだけを盗み、その他の物はすべて残していた。
しばらくしてフロントでエディが話していた警察との電話が廻ってきた。詳しい状況などはすでにエディから聞いていたようなので、ぼくは盗まれたものを申告するだけでよかった。

続けて電話で旅行者用小切手の盗難届けをアメリカン・エクスプレスに出した。盗まれた現金が戻ってくることはほとんどないので諦めるしかないが、旅行者用小切手は、盗難や紛失の際には再発行ができるのだ。
クレジット・カードもない。日本の発行会社にコレクト・コールをかけ、届けを出す。最後に使用した日と場所を聞かれたが、これも日記帳で判明した。
そして何とぼくはこの時、旅券も部屋において出ていた。旅券まで盗むとは血も涙もない泥棒である。
その他、ウォークマンや腕時計、カメラなどが盗まれていた。エディの被害は現金の入ったマネー・ベルトと衣服ということだった。

ぼくは最初、事件を警察に連絡した後、彼らがモーテルに来て現場検証をするものと思って、現場の状況をなるべく崩さないようにして待っていたのだが、いつまでたっても彼らは来ず、やがてアメリカの警察はこの程度の「日常的」な「軽」犯罪ではわざわざ現場に出向いてくることはないのだということが分かった。こんな「軽」犯罪の犯人を苦労して探す時間も人材も理由もないのだろう。
報告が済んだ後、エディはちょっと出てくると言って外出し、何時間も帰らず、深夜になって帰ってきて、腹が立ってむしやくしやしたので道端で浮浪者と喧嘩してしまったといった。

次の朝、アメリカン・エクスプレスに電話をして、オフィスの場所を聞き、さらに領事館に電話し、旅券の再発行の手続きについて聞く。
シーザース・パレス・ホテルにあるアメックスのオフィスヘ。大丈夫だというのにエディが一緒に付いてきた。改めて盗まれた旅行者用小切手の番号を届け、アメリカ・ドルの小切手についてはその場で再発行された。カナダ・ドルの旅行者用小切手については、後ほどカナダのオフィスで再発行を受けてくれとのことだった。

再発行を受けた後、エディが頼みがあるといってきた。自分はお金を全部現金で持ってきていて、それをすべて盗まれてしまったから金を貸してくれというのである。
少しなら貸してやれるがと思って、いくら欲しいのかと聞くと、千数百ドル貸してほしいという。どうしてそんなにいるのかと尋ねると、すぐにイギリスに帰りたいからだという。そんな大金は貸せないといって断ると、彼はお金は必ず返す、自分のパスポートに住所が書いてある、これを写していいから、自分を信用してくれないのかと迫ってきた。
ぼくがイギリスの親に送ってもらえばいいというと、自分の親はお金を送ってくれるような親じやないと決めつけ、イギリスの領事館に行けばというと、そこでもお金は貸してくれないといい張る。
そこで、なぜ1000ドル以上も必要なのか、イギリスまでの片道はそんなにしないはずだというと、分からないというので旅行代理店に電話させて訊かせると、520ドルだったと彼はいった。今度はそれだけでいいから貸してくれと、彼はいい出したが、ぼくは彼が信用できなくなってきていたので、ほんとに航空券を買うなら一緒に代理店に行って金はぼくが直接払ってやるといった。
彼は怒りだした。これまで自分は親切にしておごってやったりしたのに、今は金を全部盗まれてしまったのだ。君は旅行者用小切手だったから再発行を受けれたんじやないかと、彼は唾を飛ぱしながら怒鳴った。

金を借りたいという男に怒鳴られる筋合いはないし、確かに彼はいくらかの金をぼくのために払ったかもしれないが、それはすべて彼のほうからいい出したもので、しかもぼくが断ったものを彼が半ば強引に自分で払ったのだ。そのことをいうと、しばらくは黙っていたが、また別の理由を考え出しながら、懐柔と怒号を繰り返しながらぼくに迫った。

その日一日続いたいい争いの末、結局、ぼくは再発行されたばかりの旅行者用小切手の中から200ドルをカジノで換金して(旅券がないので両替所では換金できない)彼にくれてやった。
ぼくは200ドル捨てたことよいいいが終わったことにせいせいしていた。その後、二度と彼と会うことはなかった…。

次の日、ぼくは最初に泊まっていた安宿の部屋で目覚めた。
前の晩、エディと別れた後、モーテルの親父に礼をいって、切り裂かれたバックパックに荷物を包み、それを胸に抱えて再びそこに戻ってきたのだ。
まずは新しいバックパックを買わなければ移動できないのだが、ここはギャンブルの街、ラス・ヴェガスである。そんなアウトドア用品を売っている店は見つからなかったので、衣料雑貨店のウールワースで頑丈そうな手提げ鞄を買い、それで間に合わせることにした。

警察署へ事件の報告書を取りに行く。海外旅行者保険の保険金の請求や旅券の再発行に必要なのだ。この手の「軽」犯罪事件で被害者のために警察がしてくれることといえば、唯一これだけである。有料、5ドル。

これでもうこの街には用はない。バスの時刻表を見ると夕方発のロサンゼルス行があった。そこで乗り継げば領事館のあるサン・フランシスコに行ける(ロスにも領事館があるのだが知らなかった)。宿に帰って新しく買った鞄に荷物を詰めた。鞄は少し小さかったが、減った荷物にはちょうどよかった。ぼくはぴかぴかの鞄とぼろぼろの心を抱えてラス・ヴェガスを去った。


つづく

3月11日
邦人、ラスベガスで金品盗難

[ラスベガス10日]
10日夜、米国ネバダ州ラスベガスを旅行中の日本人Aさん(28)が宿泊中のラスベガス大通りにあるゲイトウェイモーテルに外出から戻ったところ、室内が何者かによって荒らされているのを発見、同地の警察署に通報した。
被害者のAさんによると宿泊中のモーテルを3時間ほど外出した間に何者かが部屋に侵入し、金品を持ち去ったらしい。室内には被害者の持ち物が散乱しており、鍵をかけていた鞄は切り裂かれ、中を改められて金目のもののみが盗まれたという。

盗まれたものは以下の通り。
旅券(パスポート)、現金 約10万円、旅行者用小切手 米ドル2400ドル分(約30万円)、カナダドル5000ドル分(約55万円)、カメラ、ウォークマン、腕時計、クレジットカードなど。

つづく