バルト三国にいったのは一九九三年のことだった。
エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国が独立したのは一九九一年のことでそのときから注目はしていた。旅人は新しく独立した国や個人旅行が許されるようになった国などがあると行ってみたくなるものなのである。しかし当時バルト三国の旅の情報は少なく、英語のガイドブックにようやく少しずつ情報が載りはじめたというところだった。現地の近くまで行って何の情報も入らなければ行くのはあきらめようと思っていたのだが、ポーランドのワルシャワまで行くと少しずつ情報が入り始めた。ユース・ホステルには同じくバルト三国へ入ることを計画している女性がいたし、掲示板にも情報が張り出されていた。そしてそこのユース・ホステルに滞在中にバルトから帰ってきた旅人がきたことによりぼくはバルト三国に行くことを決めた。
リトアニアの首都ビリニュスは一番高い建物が教会の尖塔というような田舎で、ラオスのヴィエンチャンが大都会に見えるほどといえば東南アジアをよく旅する人たちには分かりやすいかもしれない。
ラトヴィアの首都リガはかなりロシアっぽい都市で、この三国ともそうだったが花屋が多かったのが印象に残っている。
エストニアの首都タリンは三国の中では一番進んでいる町だった。フィンランドが海を挟んですぐ向かいでそこのテレビやラジオを常に見て聞いていたというのも関係があるらしい。エストニア語とフィン語は同じ語族に属していて、互いに理解し合えるほど似ているらしい。それらのお手本を長年見ていただけあってか、独立後の彼らは変化も早かったようだ。独自のなかなかかっこいいファスト・フードの店がすでにありパスタやアイスクリームなどを売っていた。
タリンの旧市街はとても美しかった。小さな丘の上に立っている坂の多い旧市街はとても絵になった。もう今はかなり観光地化されてしまったと聞いているが当時はまだそれほどでもなかった。
旧市街を観光中、日本人の若い旅人にあった。彼はフィンランドから船で入ってきたということだったが、彼のこの国の情報源は日本で買った「ソ連」のガイドブック(バルト三国に関するページが数ページ含まれている)だったので安宿の情報などは全くなく、来た時は安宿をかなり探しまわったそうだが、見つからなかったので仕方なく旧ソ連系の国営ホテルだったところに大枚五十ドルも払って泊まっているとのことだった。
彼はその日のうちにフィンランドに帰るということだったので、ぼくが四十クローニ(約三百六十円)の宿に泊まっていることは内緒にしておいた。
ガイドブックのない旅にあこがれる。
たいした計画も立てずにガイドブックも持たずに旅立ち、その日の気分で適当な乗り物に乗り、気に入ったところで降りて、地元の人の話を聞きながらどんなふうに過ごすか決めて…。
でも多分次の旅をするときもいろいろ調べて計画を立ててしまうに違いない。
草々
(「野宿野郎」1号より転載)