前略、
中原区に入って、河口まで15キロのポストを過ぎ、しばらく滑っていると、これまでの右岸はずっといまいちな路面だったのが突然すべすべになり滑りやすくなる。おまけに休憩できるベンチまで現れた。ここまで右岸の道路脇にはこんな休憩所はほとんどなかった(道路から離れた河原のグラウンドなどにはあったかもしれないが)。
ゆっくり休んで、再び滑りやすい路面をよろこんで進んでいたら、いい路面はまたすぐにいまいちに戻ってしまい、さらに東急東横線の鉄橋に近づくとアスファルトだった舗装が、石のたっぷりと混ざったセメントになり、がたがたで滑走不能寸前の状態になった。道路も狭くて危ないのでフレームをはずして歩いた(あらためていうとスケート靴はウィールのついたフレームがはずせるHypno社のもの)。セメントの路面は短く、すぐにアスファルトのよい路面に戻ったが、その先の丸子橋で再び、左岸に渡るのでそのまま歩いて橋を渡った。
中原区を出て、東京都大田区に入る。
つづく
海まで15キロのポスト。右岸は舗装がずっとよくない。
右岸には珍しい休憩できるベンチ
石がたっぷりと混ざってごつごつしたセメント路面
丸子橋をわたって大田区へ。
前略、
高津区に入ってもあいかわらず舗装状況はよくなく、足の裏に伝わる細かい振動が不愉快だ。
合流する小さな高瀬川の手前で短いが大きな坂が下り上り下りとつづけてあり、車道の橋をくぐった後、少し平瀬川沿いにさかのぼって人と自転車専用の橋を渡る(Google Maps)。
新二子橋と二子橋、東急田園都市線の鉄橋をくぐると舗装が途切れてしまうようにみえるが、土手に上がると舗装がつづいている。
新多摩橋をくぐってしばらく行くと、高津区を出て、中原区に入る。
つづく
新二子橋
二子橋、東急田園都市線の鉄橋
東急田園都市線の鉄橋をくぐると土手に上がる坂道がある。
新多摩橋
前略、
多摩水道橋を渡って神奈川県川崎市多摩区に入る。多摩区の舗装状況はあまりよくなく、細かいでこぼこのある路面は快適ではないが、舗装がないよりはまし。小田急線の鉄橋をくぐってしばらく行くと多摩川に合流する小さな川を少し迂回して橋を渡る。渡ったところには二ヶ領せせらぎ館というよくわからない施設がある。
さらに進むと東名高速道路の橋があり、それをくぐり、しばらく行くと多摩区を出て、高津区に入る。
つづく
多摩水道橋を渡って、右岸の河原の道へ。
多摩区の舗装状況はあまりよくない。
小田急線の鉄橋
小さな川を迂回して渡ったところに二ヶ領せせらぎ館がある。
東名高速道路(人は渡れない)
多摩区と高津区の境
前略、
調布市を出て狛江市に入る。狛江市は多摩川の土手道にあまり予算をかけてくれていないらしい。
狛江市に入った途端、荒い舗装に変わり、それもすぐに砂利道になり滑走不能になる。
しばらく歩くと再び荒い舗装道路が合流するが、また土手の砂利道と車道に分かれる。この車道は車両通行止めの区間があるのでその部分では滑走可能。通行止めの区間をでると狭い道の割りには車がよく通るのでスケート滑走は危険。
この先も狛江市の土手道は未舗装道路が多いので、近づいてきた多摩水道橋を渡る。羽村市を出発した時からずっと左岸を滑ってきたが、ここではじめて右岸に渡る。橋を渡ると狛江市を出て、神奈川県川崎市多摩区に入る。
つづく
荒い舗装もすぐに砂利道になってしまう。
再び舗装道路が合流。
土手の砂利道と車道に分かれる。
車道の車両通行止めの区間では滑走可能。
通行止めの区間をでると狭い道の割りには車がよく通るので注意。
右の車道を行き、多摩水道橋を渡る。左の道を下ると橋をくぐれる。
多摩水道橋を渡って右岸へ。
前略、
天気がよくなかったりで時間が経ってしまったが、インラインスケート多摩川下りの後半をやった。
前回は夕方までかかってしまったので、今回はちょっと早起きして前回の終了地点からスタート。河口までは約28キロ。
土手から河原に下り、多摩川原橋をくぐりしばらく行くと競輪場の京王閣(Google Map)があり、京王相模原線をくぐる。その後、再び土手に上がる。
調布市も府中市と同じくらい川沿いのサイクリングロードは整備されていて、約4キロと短いが状態のよい舗装がつながっていて全くストレスなく滑れる。
調布市を出て狛江市に入る。
つづく
多摩川原橋
京王相模原線
河原から再び土手に上がる
調布市を出て狛江市に入ると…
六日目、このあたりから線路の両側には高い木がずっと並べて植えられていて車窓はとても単調だった。寝ているか、食べているか、車内の日本人や外国人とうだうだしゃべっているかだった。
七日目、食堂車のロシア料理に最初のころは格安のキャビアなどもあったそうなのだが、そんなことは知らないままなくなってしまい、その後、メニューは同じようなものばかりになってきた。車内販売で弁当を売りに来ることもあった。
この日、弁当の車内販売を買い逃して、それを追いかけて後ろの車両へと向かった。一等寝台の車両に入り込んでいったところ、ロシア人のおじさんに声をかけられた。たいして話も通じないのだが、そのサーシャというおじさんに食べ物をすすめられると、昼食がまだだったぼくはすすめられるまま、パンや豚肉、ショウガなどをごちそうになった。当然、ウオッカもすすめられたのだが、ビールを飲んでも気持ち悪くなるぼくはお断りした。
そのうちサーシャさんはジーパンや服を売ってくれないかと言いだした。こちらも余裕があれば小遣い稼ぎをするところなのだが、荷物を軽くするためにたいした衣服を持っていないのでこれも断った。
お次はチェンジマネー。これもぼくは間に合っていたのだが、同じ車両の日本人にしたいといっていたのがいたので戻って呼んできてやった。
これも済むとサーシャおじさんはトランプをとりだして、「21」(ブラックジャック)をやろうと言いだした。ロシアのトランプはジャック、クィーン、キングの表記がJ、Q、Kではなく、B、Д、Kで、ブラックジャックの点数はそれぞれ二、三、四点と数えるらしい。エースはAではなくTという表記で十一点とだけ数えるとか(日本では一か十一点)。
ロシア人二人、日本人三人で一回一ルーブルで勝負を始め、おじさんたちに十五ルーブルほどお小遣いをあげたところでやめた。
そろそろオベリスクが見えるころだというのでドアのところへ見に行く。このオベリスクというのはユーラシア大陸のアジアとヨーロッパの境の目印として建っているもので、ウラル山脈の真ん中にある。実際には小さなしょぼいものだったが、とりあえずは見逃さずに済んだ。
この後もサーシャさんたちにチーズや(ぼく以外のひとは)ウォッカをごちそうになり、お礼を言って自分の車両に戻ろうとすると、味をしめたサーシャさんはなにかものを売ってくれる人がほかにもいるんじゃないかとぼくらの車両まで付いてきた。しかし、ぼくらの車両の車掌さんに見つかって目をつけられてしまったので、何もできずすごすごと戻っていった。外国人をひとつの車両に押し込めるというのはこういう理由もあるのだろう。
この列車では車両ごとに車掌さんが一人付いていて、各車両の端には車掌室がある。車掌さんはたのめばいつでも乗客に無料で甘いチャイ(ロシアン・ティー)を作ってくれた。
この列車にはお湯の出る温水器はあるが、シャワーはない。北京からモスクワまでノンストップでこの列車に乗ると七日間シャワーを浴びれない。
八日目、モスクワ、ヤロスラブリ駅到着。
地下鉄(五カペイカ)で赤の広場近くにあるインツーリストホテルへ。
モスクワ見物に出かける。上海雑技団を見れず、北京雑技団はたいしたことないといわれ見なかったぼくは、モスクワではサーカスを観たいと思っていたので、ホテルの隣の旅行代理店で訊いてみるとチケットは十二ドルだといわれた。これは外国人料金に違いないと直接サーカス小屋(といっても立派な建物だったが)まで行ってみると、なんと一軍は海外公演中で、二軍は次の日の夜に公演予定とのこと。次の日の夜には再び列車に乗って出発なのでサーカスは再びあきらめなければならなかった(後で聞いたら一般向けのチケットは三ルーブルからあったそうだが、その先三日分は売り切れていたそうだ)。
その後、モスクワ大学や赤の広場、デパートなどをぶらぶら。
この日、困ったのが、晩飯だった。人民食堂のようなものは所々にあるのだが、どこもかなり人が並んでいて、外国人旅行者が入れるようではなく、一国の首都だというのにその他には食べるところがほとんど見つからなかった。ほうぼう歩き回ったすえに見つけた道端のスタンドでハンバーグと怪しげなドリンクを買って、なんとか空腹はおさめた。ホテルに帰ると他の旅行者も同じで皆、食べ物を求めて歩き回ったようだった。
九日目、朝食はホテルのバイキング形式で、やっとまともな食事にありつけた。
ホテルにいた前の晩に食事に困った日本人たちが、今晩はホテルに紹介してもらってどこかちゃんとしたレストランを予約しようという話をしていて、仲間に入れてもらうことにした。
モスクワのマクドナルドを見学に。あわよくば、食べていこうと思ったが、見学のみ。冗談ではなく千人を軽く超える人たちの列がまわりを取り囲んでいた。マクドナルドの看板のMのマークの下にはソ連の鎌と槌のマークが。店内にはマクドナルドの商品とからませた世界各地のイメージ写真があり、日本のものは石段を降りる虚無僧が片手にハンバーガー、もう片手にシェイクを持って、顔を隠すかぶり物の天蓋の下からストローですすっている写真でかなり笑えた。
ここでも鉄道の切符を手に入れるのに手間取った。四時にホテルの旅行社に行くと、六時にもう一度来いといわれ、結局六時に行ってもまだ手に入らず、予約したレストランの時間なので皆で出発した。
七人ほどでバスやトラムを乗り継いで、ホテルのフロントにもらった地図を頼りにレストランを探した。何度も人に訊ねて、ようやくカーテンを閉めきったまったくそれらしくない普通の建物が目的のレストランであることが分かった。予約客のみの店なのでドアも閉め切られていた。
中はカーテンが閉めきられていてちいさなライトとロウソクが付いているだけで、落ち着いた雰囲気をかもしだそうとしていたのだが、ただ薄暗いだけだった。
サラミやポーク、野菜、グラタンなどの前菜が並んでいた。続いて、ビーフやポークの料理、挽肉を葉っぱで包んで煮込んだ料理などがでてきた。
あとはデザートのムースとチャイだけというところまで来たのだが、ぼくはこの後、ホテルに戻って切符を受け取って、駅まで行って列車に乗らなくてはならなかったので一人でそこを離れた。
ホテルに戻って切符を受け取りに行くと、受付のおばさんにまだこんなところでうろうろしていたのかとせかされた。列車の時間が迫っているのでタクシーで行くことにした。外国人御用達のホテルの前からタクシーに乗るのはぼったくってくれといってるも同然なのでいやだったが、そのあたりは高級ホテルの固まっているところで少し歩いたくらいでは何も変わらないので観念してタクシーを拾った。
「五ドル!」
思っていた通りタクシーの運転手は高飛車に出てきた。こういうときのために持っていたアメリカのタバコを見せる。
「二箱だ!」と運ちゃん。
こちらも急いでいるので二箱で手を打つ。とばしてもらった。
当時のソ連ではまだアメリカタバコが取引材料として使えていたので、ぼくも吸いもしないのに北京で何箱か買って持っていた。列車でロシア人にすすめてみたり、ホテルでお湯をもらったお礼に何本かあげたりしていたが、実のところそれほど人にたのむこともなかった。このまま西ヨーロッパに出てしまえばただの吸いもしないアメリカタバコになってしまうところだったので、最後になって役に立って助かった。
タクシーにとばしてもらったので、駅には余裕で到着。フィンランドのヘルシンキ行きに乗り込んだ。
夜中、国境で起こされる。パスポートチェックは問題なかった。そして、税関がやってきた。
今回、ぼくはこの国の中で一度列車の中で五ドルを闇両替しただけで、一度も正規の両替はしていなかった。つまりこの国にいた一週間弱のあいだ五ドル(とタバコ数箱)で過ごしていた(正確にいえば、プラス日本で支払った十数万円なのだが)。一度も正規な両替をしていない旅行者を税関はどうするのだろうとどきどきしながら待った。
しかし、税関は何のチェックもせず出ていき、列車はフィンランドに入っていった。
草々
[脚注]
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一等寝台
一等寝台は二人部屋
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サーシャ
アレクサンドラの愛称
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ロシアのトランプ
インターネットで記憶のあやふやなところを確認していたら、ロシアのトランプは二から五のカードがない計三十六枚とあった。うーん、全然おぼえてない。だからJ、Q、Kが二、三、四点なのかとちょっと納得(じゃあ五点と数えるカードはないのか?)。
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車掌ごとに車掌さん
中国やソ連のホテルもフロアごとに管理人(コンシェルジュ)がいるのが普通なので、こういうシステムが好きなのだろう。
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ロシアン・ティー
後でお金をとられたという車両もあった。
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シャワーはない
車掌室には小さなシャワー室があるといううわさがあり、お金を払って使わせてもらった人もいるという話を聞いた。
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モスクワではサーカス
ボリショイサーカスホームページ
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モスクワのマクドナルド
モスクワのマクドナルドはぼくが訪れたこの年に一号店が開店したということなので、まだ開店してあまり経っていなかった。
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ヘルシンキ行きに乗り込んだ
ヘルシンキの途中には、ロシア随一の観光地であるレニングラード(サンクト・ペテルブルク)があって、行きたいのはやまやまだったのだが一泊するごとに百ドル単位で出ていってしまうシステムのため、泣く泣く通過した。
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一度も正規の両替はしていなかった
イルクーツクから乗った列車でものすごい額のルーブルの札束を持っている日本人の女性がいた。ハバロフスクからの路線で来た旅行者だったが、ロシアに入国したとき、高い公定レートのことしか知らず、結構ルーブルが必要だろうと一度に一万円を正規に両替したらしい。彼女は列車内で日本人闇両替屋となっていた(正規な両替なので出国時に再両替することもできる)。
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フィンランドに入っていった
ヘルシンキに着き、駅でいきなりトイレに行きたくなり、公衆トイレに行くと、料金が三フィンランド・マルカ(約百二十円)もして物価の急激な上昇にたまげた。
二日目、コンパートメントで周さんやUさん、Kくんと話をした。昼、夜は皆で食堂車に行った。食堂車は走っている国のものが付くので料理は中華料理である。周さんにみつくろってたのんでもらった。
三日目、朝の五時に起こされた。国境が近いらしい。
国境の中国側の駅である満州里に着く。検疫が軽くあり、パスポートを持っていかれ、税関は入国時に書いた書類を持っていった。車両の入れ替えなどがあった後、駅に降りて再両替などをした。
列車に戻り、ソ連へ入国した。香港から上海へは船だったので、これが生まれて初めて地面にある国境を越える経験だった。広い草原に延々と柵が続いていたように記憶している。
島国に生まれたからだろうか。世界中のほとんどの人があたりまえに感じているであろう地面に引かれた国境にぼくは引きつけられた。一つの国を離れ、もう一つの未知の国に入るという行為は、ぼくを不安と興奮が入り混じった気分にさせた。その後、とりわけ歩いて国境を渡るチャンスがあるときは、なるべく逃さないようにするようになった。
ソ連最初の駅で制服が乗り込んできた。まずぼくらをコンパートメントから出して、中を調べ、パスポートとヴィザのチェックをした。税関は何も調べずにハンコを押しただけ。そのあいだにぼくらを乗せたまま、車両を持ち上げて車輪の台座を広軌のものに取り換えていた。
その後、駅に下ろされて再び待った。真夏だったが、ここまで北上するとかなり涼しい。しばらくすると中国のものに変わり、ソ連のディーゼル機関車にひかれた列車がやってきて出発した。
食堂車がソ連のものに変わって、ロシア料理が食べられるようになっていた。その他、途中の駅ではじゃがいものふかしたものや、ギョウザの皮にいもを包んだものなどを売っていた。じゃがいもをただふかしたものはとてもおいしくてこの列車で食べたものの中でも一番印象に残っている。
晩飯の時、ロシア人が近づいてきて言った。
「チェンジ・マネー?」
闇両替屋である。一米ドルを十四ルーブルでどうだという。当時の旅行者レートは一ルーブル二十七円ほどで、三倍ほどよかったので五ドル分両替した。
四日目、北側の車窓にバイカル湖が見えていた。昼過ぎ、イルクーツク到着。
U先生はホテルまで例の送迎車が付いているというので、ぼくたちは歩いてインツーリストホテルへ。着くと、このホテルにはハバロフスク方面からきたらしい日本人旅行者がいっぱいだった。
バウチャーを渡してチェックイン。次の日のモスクワ行きの切符は、今度はたいした手間もなく手に入った。
部屋は外国人用の高級ホテルということなのにかなりぼろかった。水道はきっちり止まらない。トイレの便座はちょうつがいが壊れている。テレビは置いてあるけど映らない。カーテンは引くとはずれる。部屋に据え付けのラジオは本体が取れてしまう。こんな部屋に日本で一万円以上払っていた。
イルクーツクの町へ出てみた。中国からやって来ると涼しいし、人は少なく、さびれた田舎町という風情で落ち着いた。
途中で闇両替屋につきまとわれた。もう列車内で済ましていて必要ないのでお断りしたが、千円で百ルーブルということだった。列車でも一ドル十四ルーブルだったので、このころの実勢レートは一ルーブル十円あたりということだったのだろう。
このころの正規の両替レートはすでに書いたように一ルーブル二十七円ほど。このレートは、この旅行を始める直前に旅行者用の特別レートとして公定レートから一気に十分の一に下がったものだった。それまでの公定レートは一ルーブル二百七十円ほどだった。さすがに実勢とそぐわないというので十分の一に下げたらしいのだが、まだ実勢レートとは三倍ほどの開きがあった。
この日の晩、列車で一緒だった日本人三人でホテルのレストランで食事を食べることになった。レストランのメニューにはルーブルで値段が書かれていたが、レートが引き下げられたばかりということもあって、過去の情報などからいろいろな不確かな情報が飛び交っていた。この時に問題になったのは、高級ホテルのレストランでは外国人に値段のルーブルを公定レートで計算して外貨払いさせられるらしい…という情報だった。
公定レートで計算されてしまうとかなりな値段になってしまうのでぼくたちはびびって三人でミンチカツと牛肉の料理を一人前とチャイ(紅茶)だけをたのんだら、結局ルーブル払いで一人二ルーブルで済んでしまいみんなで笑った(公定レートだと五百四十円、旅行者レートだと五十四円、実勢レートだと二十円)。
その他、町の喫茶店ではチャイと包子が四人で七ルーブル、露店のシシカバブが一本一ルーブルだった。
五日目、ホテルをチェックアウト。もう一晩そこに泊まるというK君のところに荷物を置かせてもらって、町をぶらぶらする。喫茶店に入り、キリル文字で書かれたメニューからコーヒーとアイスクリームとケーキともうひとつは適当に分からないけど指さしてたのんでみた。ウェイトレスの女の子はロシア語でなにかいっていたが、分からないのでそのままたのんだら、コーヒーとアイスクリームとケーキと「タバコが一箱」が出てきた。ロシアでは喫茶店のメニューにはタバコの銘柄がのっているので注意したほうがいい。
この日はバスの回数券(六カペイカの五枚つづり。百カペイカが一ルーブル)を買って適当に乗ったり、降りたりしたり、映画館へ行ってチケット(一・五ルーブル)を買ったはいいが、それが夜の回のチケットで見れずじまいだったりということをしながら時間をつぶした。ようするに観光するようなところは町なかにはなかったのだ。
夜になって駅へ。列車を待っているとホテルにたくさんいた日本人が続々とやってきた。列車が到着するとその日本人たちがみんな同じ車両だということが分かった。車両の半分以上は日本人だった。他の外国人旅行者もいたのでソ連の国際旅行社が外国人をひとつの車両に集めたようだった。
つづく
[脚注]
-
広軌
広い線路の幅の規格のこと。中国とソ連では線路の幅が違うので車両はそのままで車輪のついた台座だけを広いものに交換した。
-
ソ連のディーゼル機関車
現在ではこの路線は全線電化されているらしい。
-
ホテルまでの例の送迎車
前回参照のこと
-
公定レート
この原稿を書くためにインターネットで調べてみたところ、このころのソ連には三種類のレートが存在したらしい。公定レート(一米ドル=〇・五五四二ルーブル)、商業レート(一米ドル=一・六六二六ルーブル)、特別(旅行者)レート(一米ドル=五・五四二ルーブル)の三つ。公定レートは形骸化した名目上のもので、貿易などの経済活動には二番目の商業レートが使われた。三番目の特別(旅行者)レートというのがぼくが旅行した時期にできたもの。しかし、たいがいの旅人は闇両替していたので、公的なレートがいくらであっても関係がなかった。
-
包子
ロシアや東欧の一部では包子や餃子(ポテト入り)など中国由来の料理がその国の料理としてなじんでいる。
香港で一週間滞在し、船で上海へ、その後、北京へ。
北京でシベリア横断鉄道に乗る前の日、それまで泊まっていたバックパッカー御用達の僑園飯店から、一転、高級ホテルの前門飯店へ移動した。旅行代理店で列車に乗る前日のホテル一泊を無理矢理予約させられていたのだ。
旅行代理店でもらったバウチャーを渡してチェックインした。ホテルはバウチャーを渡せば泊まらせてもらえるが、列車はそういうわけにはいかないので、バウチャーを切符と引き換えてもらわなくてはならない。ホテルのフロントに訊ねてみたが、どうすればいいのか全く分からなかった。
ホテルを出て、別の高級ホテルである崇文門飯店の中にある中国国際旅行社まで行ってみたが、もう営業は終わったので次の日にまた来いといわれてしまった。問題は泊まっている前門飯店から北京駅までの車での送迎の予約がこれまたほしくもないのに付けられていて、この崇文門飯店が北京駅に近いところにあるということだった。このときぼくは、次の日は崇文門飯店の中国国際旅行社へ行き、切符を受け取ってそのまま北京駅に行き、送迎車なんかほっとけばいいと考えていた。
甘い、甘すぎた。中国人はそんな甘い考えはすべてお見通しで、ぼくに好きにさせてくれるはずもなかった。
翌日、シベリア横断鉄道で出発の日、ホテルで朝食を食べてチェックアウトし、荷物を持って崇文門飯店へ向かった。
中国国際旅行社でバウチャーを見せて列車の切符のことを訊ねると、いろいろと電話をかけた末に別のホテル、国際飯店の中国国際旅行社へ行けと、たらい回しされてしまった。北京駅はもう近いので、先に荷物を北京駅に預けてから国際飯店へ向かった。国際飯店に着いたときにはすでに昼時になっていて、中国国際旅行社は昼休みになっていた。
昼休みが終わったあとも窓口をたらい回しにされた後、日本語を話せる女性が出てきて、衝撃の事実を告げられた。
ぼくの列車の切符は、ぼくを前門飯店から北京駅へ送っていくことになっている車の運転手が持っているというのだ。
あほ〜! なんでそんなやつに切符を預けるのだ。素直にホテルのフロントに預けとけバカたれ! こっちはもう荷物を北京駅に預けて準備万端なのだ。また前門飯店へ戻れとでもいうのか。
再び交渉の末、七時にその運転手を今いる国際飯店に来させるということで決着した。でも、もしこれで運転手が来なかったらぼくはどうなるのだ。
恐れていたとおり、七時をすぎ、十分、二十分をすぎても運転手は現れず、ぼくはパニックにおちいったが、その直後、やっと運転手が現れた。すぐ近くの北京駅まで乗せてもらい、切符を受け取った。その時に運転手はぼくの名前ともう一人の日本人の名前を書いた紙を見せ、この日本人を知らないかとぼくに訊ねてきた。彼はその日本人も北京駅まで送り届けて切符を渡さなければならないのだが、見つからないらしい。
知るか〜! こんな駅までの送迎車を付けられたせいでこっちは大迷惑しているのだ。おまけにこんなことに金まで払ってるとか思うと、余計に腹がたつわい。
しかし、なんとか出発前に切符を持って無事、駅に着けて一安心だった。プラットフォームにはすでにソ連行き国際列車が停っていた。ロシア人の車掌に挨拶して乗り込んだ。コンパートメントは二段ベッドが二つの四人部屋。同室の中国人の周さんはソ連に招かれてモスクワまで行くとのこと。日本統治時代に日本語を習ったので少し日本語が話せた。
発車直前に外から日本語が聞こえてきた。通路に出てみると、ぼくを北京駅まで送ってくれた運転手がいて、日本人を連れていた。彼が見つからないといっていた日本人らしい。彼(K君)はホテルでいくら待っても送迎が現れずパニックになり、(多分、運転手が先に北京駅へ行ってしまったという連絡があって、)自分でタクシーを拾って飛ばしてもらい、(多分、駅で彼の切符を持った運転手に会って)なんとか間に合ったとのことだった。
これってひょっとするとぼくが送迎の運転手を国際飯店まで無理矢理来させたために起きたとばっちりだろうか。すまんと心の中だけであやまった(でも運転手に切符を預けるのが一番悪いんだからね)。
その他、高校の教師をしているという日本の女性Uさんも同じ車両だった。
ほぼ定刻に列車は北京駅を出発した。
つづく
[脚注]
-
船で上海へ
香港〜上海の客船はリーズナブルな値段で、のんびりした船の旅が楽しめたのだが、もうなくなったと聞いている。
-
僑園飯店
僑園飯店は現在もまだあるが、もうバックパッカーのたまり場ではなく、りっぱな高級ホテルになっているらしい。このころは大雨が降ると地下の安い部屋には雨水が流れ込んでたまってしまうようなところだった。
-
車での送迎
カナダのトロントのユース・ホステルに泊まっているときに、ちょっとした話題になった日本の女性がいた。その女性はユース・ホステルの前に大きな黒塗りのリムジンで乗りつけてチェックインしたというのだ。これもトロントまでの飛行機と町までの車の送迎がセットになっていて、迎えに来たのがでかいリムジンだったということらしい。
前略、
仕事を辞めて、海外旅行に出ることにした。どちらも初めての経験だった。
学生時代はお金がなく、海外旅行など考えもしなかったし、出不精なので国内旅行もあまりするほうではなかった。仕事を始めて数年経ち、多少お金が貯まったので、ここらで一度くらい海外旅行をしておこうと思ったのだった。
ある年のまだ肌寒い春先、夏には出発しようと計画を立てはじめた。
最初はヨーロッパを二、三ヵ月回って帰ろうと考えていたのだが、いろいろと調べているうちにだんだん計画は大きくなっていき、最後には、中国から北京発のシベリア横断鉄道でヨーロッパへ行き、北米に飛んでアメリカを横断して、日本に戻る西回りの世界一周旅行をしてみようということになった。
シベリア横断鉄道といえば、ロシアを走るウラジオストク〜ハバロフスク〜イルクーツク〜モスクワのルートが最も純正なものだが、他にも北京発でモンゴルのウランバートル経由のモスクワ行きと、北京からモンゴルを東によけてハルビン経由でいくモスクワ行きのルートがあり、途中から合流という形だが、これらも広義のシベリア横断鉄道とここでは呼ばせてもらう。どの列車も一度も乗り換えをすることなく運行する世界最長の路線で、そのなかでも北京発ハルビン経由は当時最も距離が長かった。
当時は日本でソ連(そう、当時はソビエト連邦がまだ存在していた)のヴィザを取るのは結構大変だった。まずソ連の国営旅行社であるインツーリストと提携している日本の旅行代理店を見つけなければならなかった。インツーリストと提携している旅行代理店と連絡を取り合いながら旅程を固めていくうちに、最初に予定していた北京発モンゴル経由の列車が団体に押さえられてしまうということがあったりしたため、ハルビン経由の列車に決め、前金五万円を払って手配を頼んだ。同時に香港行きの片道航空券の手配にもかかった。
一回目のヴィザの手続きのために大阪のソ連総領事館へ。
もちろん旅行代理店にお金を払えばヴィザの手続きなどはすべてやってくれるのだが、ぼくは計画や手配も旅の楽しみのうちだと思っているので、個人でできるのであれば、できるだけ自分で行って手続きするということにしていた。
大阪のソ連総領事館は大阪市内ではなくちょっと辺鄙なところにあった。駅のインフォメーションが領事館のある豊中市の西緑ケ丘と池田市の緑ケ丘を混同したため乗り越してしまい、歩いて戻ろうとしてさらに道に迷い、交番で訊ねたり、人に訊いたりして、なんとかたどりつくことができた。
領事館の手前には「こちら豊中市ソビエト連邦総領事館前派出所」とぼくが勝手に呼ぶようになった交番があり、ぼくが交番に気付いたときには、警官が出てきてこちらをじっと観察していた。近づくと警官は「総領事館ですか?」「ヴィザですか?」と訊ねてきた。総領事館の入り口はまだその少し先の方なのにどうしてぼくの行き先がそこだと分かるのだろう。警官は慇懃にぼくを総領事館の入り口まで誘導しドアまで開けてくれた。
総領事館に入ると高い天井に赤い絨毯。廊下の突き当たりにはレーニンの胸像があった。受付にヴィザを取りにきたと告げると、日本語が話せるロシア人の担当の人が現れ、個室に案内されてソ連旅行の旅程などに関するアンケート用紙に書き込んだ。
アンケートを書きながら思った。なんでソビエト連邦総領事館前派出所の警官は、ぼくが総領事館に用があると分かったのだろうか。道に迷ったときに別の交番で総領事館への道を訊ねたのだが、そこから総領事館前派出所に人相、風体などの連絡でもあったのではないかと思って、気味が悪くなった。
アンケートを書いていて、記入に必要な旅行代理店にもらった資料を忘れたことに気付いた。ロビーにあるピンク電話から旅行代理店に電話をかけることにした。
受話器を上げてお金を入れても何の音もしなかった。もう一度試すと今度は通じた。
旅行代理店の女性に必要なことを訊ねていると、ノイズの交じる音でその女性は言った。
「電話が遠いんですけど…」
ロビーにある冷水器は壊れていて水が出なかったし、トイレの水道は出が悪かったのだから電話の接続がおかしくても不思議ではないが、もし盗聴しているんだったら、もっとうまくやれと心の中で毒づいた。
個室に戻ってアンケートのつづきを書く。アンケートを書いているテーブルの隅には「SDIは核を無力化できるか」という日本語の本が置いてあった。
高い壁の天井に接して小さな窓が並んで付いていた。こちらから外は全く見えない。外からも覗けない。
アンケートを全部書き込み、ヴィザ代千円を払い込んで最初の訪問は終了した。
数日後、旅行代理店から見積額が届いた。十三万円強。高いなぁ。
さらにひと月ほどたって、すべての予約が入ったとの連絡があった。前後して、香港行きの片道航空券も手配が完了した。
その後、旅行代理店からバウチャーとテレックスの用意ができたと連絡があった。
バウチャーとはソ連国営旅行社が発行する旅行の予約引換券のようなもので、旅行者が旅に持参して、ホテルに泊まるときに渡したり、列車の切符と引き換えてもらったりする。テレックスも予約の確認とヴィザの発行に関することで必要らしい。
日本でソ連のヴィザをとるには、ソ連内での旅程をすべて決めて、移動と宿泊の予約を日本の提携旅行代理店とソ連国営旅行社を通じて入れ、料金をすべて払い込むと発行されるバウチャーとテレックスが必要なのだ。
旅行代理店に行き、料金の残額を払って、バウチャーとテレックスを受け取り、再び、ソ連総領事館へ向かった。
「こちら豊中市ソビエト連邦総領事館前派出所」前で再び職務質問を受けた。名前を訊ねられ、「どちらの?」と住所まで訊かれた。その昔はソ連を旅行しただけで共産主義者扱いされたということだが、ぼくの名前と住所はいまでもどこかのブラック(またはレッド)リストに残っているのだろうか。
バウチャーとテレックスとパスポートを渡して、二度目の訪問も終了。
一週間後、三度目の訪問。もちろん三度目の職務質問。
ついにソ連のヴィザを手にした。当時のソ連のヴィザはパスポートに押すタイプではなく、別紙だった。
会社を辞め、ドルのトラヴェラーズ・チェックなどを買い(ちなみに当時の売値は百四十八円)、七月十五日、航空運賃の高くなる夏休みのシーズンが始まる前に日本を発った(これが生まれて初めて乗った飛行機だった)。
つづく
[脚注]
-
一度くらい海外旅行をしておこうと思った
当時はこれで旅の面白さにはまってしまうなど全く予想していなかった。
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ウラジオストク〜ハバロフスク
たしか当時、外国人はウラジオストクに入れなかったのでハバロフスクから乗っていたように記憶している。
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ソビエト連邦がまだ存在していた
ソヴィエト社会主義共和国連邦が崩壊したのは一九九一年十二月。
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香港行きの片道航空券の手配
香港経由で中国に入ることにしたのも、日本で中国のヴィザを取るのが面倒なため。このときは上海行きの船の鑑真号で行くことはあまり考えていなかった。よく憶えていないが、船で取ってもヴィザ代が高いのと、なるべくたくさんの国に行きたいと思っていたためだろう。
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ソ連総領事館
現在もロシア連邦総領事館と名前を変えて同じ場所にあるようだ。交番は今でもあるのだろうか。レーニンの胸像はどう処分したんだろう。
在日ロシア連邦領事部ホームページ
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ピンク電話
ひょっとしてピンク電話も説明しないと分からない人がいるだろうか。竹内都子と清水よし子の二人によるお笑いコンビ…ではなく、いやらしい声が聞こえてくる電話…でもない。着信ができるコイン式の小型の公衆電話、であってるかな。
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SDI
アメリカのレーガン政権が一九八〇年代に始めた、飛来する敵(ソ連)の核ミサイルを迎撃するために計画した戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative)、いわゆるスターウォーズ計画のこと。
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ソ連のヴィザ
日本でヴィサを取らなくても直接近隣国へ行ってシベリア横断列車の切符を買ってしまえば、ホテルの予約などはしなくてもソ連の七日間有効のトランジット・ヴィザ(通過査証)が出るということは、日本で準備しているときには全く知らなかった。これだと滞在期間が短いのでモスクワ以外で列車を降りることはできないが、ほんの数万円しかかからないということだった。
前略、
JR南武線の鉄橋をくぐると、是政橋が見えてくる。
この是政橋をくぐる部分がほぼ完璧な府中の自転車・歩行者専用道の数少ない瑕瑾。この部分は路面状態が非常に悪い。でこぼこや段差が多くて危険。すぐ近所にある競馬、競艇場でギャンブラーたちが落としていくお金をもう少しだけこの部分に注ぎ込んでほしい。(Google Map)
でもここをすぎればまたすべすべの路面に戻るので、さらに進むと稲城大橋の下をくぐる。河口から29キロのポストがあり、府中市から調布市に入る。
調布市に入ってしばらく行ったところで前半を終了させた。前半の行程約24キロ強。写真を撮り、メモを書き、飲み食いし、休み休みとろとろ滑ったので、12時45分ごろから17時半まで5時間近くかかってしまった。ほとんど歩く速度と変わらないではないか。着くとすっかり夕方になっていた。
後半につづく
是政橋
是政橋をくぐるあたりは路面状況が悪い。
稲城大橋
河口から29キロ
府中市から調布市に入る。
多摩川の夕方